こんにちは
今日も、ふと思ったことを
備忘録として書いておこうと思います。
(といっても、これは随分前の話です💦
忘れないように書き留めていました。
日々、下書きに文字を加えながら。
この記事をアップしようとしたのは2024.5.5だった模様
わたし、感じたことを覚えているうちに、
わたしが思い出せる文でメモしておかないと
すぐに忘れちゃうので、
忘れないように、ブログの下書きに、
自分がその時の感覚に繋がれるような
言葉を入力して保存しています。
わたしの宇宙(感覚・世界)といった感じでしょうか💡)
ただ、わたしがふと思った感覚なので、
わたしにとっては、そういうことなんだろうなぁとは思いますが、
わたしがこう書いているからといって、
絶対にそれがすべてではありません。
わたしは、世間の情報を鵜呑みにするのをやめました。
(昔は鵜呑みにしていましたけど、
自分が痛い目にあって、
その情報が自分に合うとは限らないと
つくづく思ったからです。)
誰かがイイといっても、
世間ではイイと言われていても、
わたしにとって合うかどうかは分からない。
だから、世間でいう一般的なイイというのは横においておいて、
自分の體がどう反応するかをみる感じです
自分の體がどう反応するか
自分にとって必要か必要じゃないか
その方法が自分にとって合っているのかどうか
ただそれだけ。
という訳で、
こちらは、わたし自身が忘れないために書く備忘録でもありますし、
ちょっと『えっ』と思われる内容も流れで書いてしまっているので、
(わたしは何かを批判したいわけではないですし、
けどそういう捉え方をする人も
いるかもしれないと思ったのもあり、
こちらの記事、あえてアメンバー限定記事としていたのですが、
特にアメンバー申請する人もいないので、
『あっ。。。これは宇宙の意志の調和とは
正反対なことをしているのだな。。。』
と氣づき、あらためて、公開記事としてアップすることにしました。)
例えば、合わない食べ物が個々に違うように、
例えば、感じ方が個々に違うように、
例えば、個々によってベストな使い方があるように、
こんな風に感じる人もいるんだ
という感じで、さら~と、
流して読んでいただければと思います。
☆.。.:*・゜☆.:*・゜☆.。.:*・゜☆.:*・゜☆.。.:*
わたしは、精麻使わせてもらいながら、モノ作りをしています。
なので個人的に作って使ってみようと思って、
自分で使う用に撚紐を作ってみました。
(精麻で、そういうアクセサリーを作られているのを見て、
せっかく手元に精麻があることだし、
自分用に作ってみよう♪と、ちょっと思ったところがあって、
試しにしてみたのです
今のところ、何か作品としてアップしたい訳ではありません。
同じものを作りたいわけではないし、
氣のりもしないので。)
それで思ったこと。
わたしは、その撚紐を輪の形にして體に結んだら、
きっと結界になるのだろうとは思う。
ただ、自分の體が疲れていたりする時に、
それを肉體に対して、
輪っかにして使うと(ネックレスとか、お腹周りにくくったり)
結界が張られてしまうがゆえに、
體が循環として出そうとするものが出しにくくなるのではないか
とわたしは感じました
(個人的感想です。)
わたしの個人的な『結界』という言葉の認識は、
マを入れないようにする。
不要なものを削ぎ落とす。
自分自身が敏感なので、
自分が自分であるために、
わたしのいる空間はわたしにとっての心地いい空間に
出来るといいなという感じです。(家族と共にいる空間も)
そして、出来れば、空間や人の影響が
肉體の中に入ってくるのを防ぎたい。。。
というのもあります。
(ただ、これはやっぱり、
根本は自分でどうにかするしかないという結論に至りました…
敏感な体質というのは、
イイもワルいも(自分にとっての快・不快)を
ドーンとまとめて受け入れつつ、
自分が快の方を選べるためのツール
(取捨選択のためのツール)の1つであるだけ。
そう再認識。→快・不快がなかったら、
わたしに合っていない空間でも居続けることに
なるだろうし、誰かが良いといって使っているからという理由で
他人目線で使うことによって自分を貶めてしまうことも
あると、今までの體験上感じるからです。)
なんだか話がそれました
結界は、日本の至るところに張られているといわれてますよね。
日本を護っていると聞いたことがあります。
代表的なところといえば、
神社仏閣。
街中にもさりげなく、張り巡らされているのだろうな💡と思います。
(ただ、これはそれなりのお力があり、修行され、
鍛練されている方が、どこからかの依頼により、
されているものなのではないかと、わたしは思っています。
そんな大切なことや場所をおおっぴろげに言わないと思うのです。
だって、誰にでも聞かれていいような内容ではないでしょう)
(↑またもや、脱線しているように思われるかもしれませんが、
本題に繋がる大切な部分です。
(わたし、まとめるの下手なのです))
さて、精麻を身に付ける行為、
それはイイもワルいもないと思います。
本人が心地よければ付ければいいし、
そうじゃなければ、付けなければイイだけ。
けれど、體に付ける場合、もしかしたら氣をつけるべきことが
あるのではないかと、個人的に思いました。
それは精麻という物質自体が
昔から神社仏閣で使われているような
神聖なものでもあるし、
ある種の儀式性を帯びているモノでもあるから
神聖なものは神聖なものなだけに、
扱い方にはそれなりに注意しないといけないものなのではないか
と感じました。
(わたしは試しに、胴体に輪っかにしてベルトのように
着けて、入浴時以外はずっと付けっぱなしにしていました
1年以上前の話です。)
神社・仏閣で使われるような神聖なアイテムなだけに、
肉體の方が飽和状態になってしまうこともあるのではないかと思ったんです。
逆に言うと結界の働きが強いと言うことなのだろうなと思います。
((人の體(エネルギー體も含め)は循環していますし、
新陳代謝もしている。
不要なものを出そう出そうとする働きがある。
そして、人って生きるために
命をいただいて生きることが出来ているという事実がある。
(ということは人は色んな意味で心身ともに
浄化が必要になる。)
それが肉體に対して精麻を輪っかにして使うことで、
體としては新陳代謝や體内循環が止まってしまうような感覚と
靈體としては手放した感情や色んなエネルギー的なモノが、
肉體とエネルギー體に閉じ込められてしまうのではと、
ふと感じました。))
わたしの體感では(わたしにとっては)
アクセサリーとして、イヤリングやピアスとして着ける、
飾りとしてバックやブローチ、
ペンダントトップとして付ける分には問題はないと
感じていいます。
それと、髪の毛を一つに括ったときに
リボンみたいにして結んであげたり。
(髪の毛には邪氣が付きやすいといいますし。)
それに精麻で作った祓い棒みたいなモノで體を撫でたり、
體のオーラとかをサッサ~と掃くのもいいんだろうなぁ
と思いました。
ただ、人體に対して輪っかにして使うのは、
扱い方によっては、もしかしたら
危うかったりするのかな
と個人的に感じました。
個々の性質にもよるかと思います。
神職さんが、神事の時に、
精麻を頭に巻いたりしてたりするのを
拝見することはありますが、
それは、神事を行うために
しっかりと禊行為をされ、
整えられた上でされているのだと思います。
脈々と続く儀式でもあり、
当然、外には出ない考え方作法もあると思うのです。
知っているからこそ出来ることとでもいいましょうか。
一般の人が精麻の細かい扱いをしらないまま、
神聖でイイモノだという認識のみで
體に巻いたりして使うのは、
もしかしたら危うい部分もあるのではないかと、
今回、自分の體で試して感じました。
精麻は儀式として使われる要素の高いものでもあるので。
儀式であるなら儀式の手順にのっとって、
進めていくものだと思うのです。
(どちらかの神社の記事にも書いてあったのですが、
そういう特別な儀式の時には、お籠りをされるそうです。
いわゆる禊だと思います。)
わたしは肉體が飽和状態になったような感覚になったので。
結界が張られているがゆえに、
輪の中に入っているわたし自身の解毒が出来ないというか、
解毒をしていても輪よりも外には出ていけない状態になってるのかも💡と
感じたんです。(肉體レベルでは出せているとは思うんです。
生理的な機能があるので。けど、着けている間は、
循環がないような感覚で、鬱血してるようなイメージで
個人的にはかなりキツかったです。)
人って、色んなことを感じるし思うし、
食事をいただくときに命を頂いて生かして頂いているし、
人は肉體的にも精神的にも循環しているので、
やっぱり肉體に対して結界になるような使い方はどうなのだろう。。。
と、考えさせられた今回の體験でした。
神道でも修験道でも仏道でも、
みそぎは、結構ハードなものと思います。
それくらいの禊をしないと禊にならないのであれば、
現代社会で普通に生きているわたしは、
日常的な浄化は出来ていたとしても、
禊のようなことは出来ていないのだろうなと
あらためて思いました。
(1年ほど前だったか
たまたまテレビを付けたときにやっていた番組があって、
ブログに書くのにどこから引用したか書かなくちゃいけないのもあって、
ネットで調べたのですけど『ETV特集 千年の祭りが絶える時』という
番組で、その1コマしか見てないのですが、
その一瞬、目に入った1コマの部分で、
『町のものは皆、祭りの日まで精進しながら過ごしている。
他のところから祭りに来るものは、それをちゃんとしているのか
わからない』
みたいなことをおっしゃっていました。
(うるおぼえですみません。
そういうニュアンスの言葉で
言葉のつづり方は違うかったかもしれません)
氣になって、実際、そのお祭りについて調べてみたら、
そのお祭りに参加されてた方のno+eを発見して。
(下記は、マツリテーターの大原学さんの書かれている
『今だからこそ記したい黒石寺蘇民祭①生と死/再生を体験する祭』
から引用させて頂きました。↓)
『祭りの前一週間は精進をし、身体の内側を清めるために努め、
水垢離で身体の外側も清め、柴燈木登り(ひたきのぼり)では
煙を吸いこみ、涙と鼻水を流して呼吸器系を清める(以下省略)』
『他のお祭りとの一番の違いは「精進」にある気がする。
食べるものを意識して分けていく、
動物性タンパク質を取らないことで食べても食べても
空腹に近い感じ続き覚醒状態になる気がする。(以下省略)』
と書かれてありました。
民間の町の人も総出で行うお祭りで
ここまでの禊をして備えているのだということに
衝撃を受けました。
それほど、祭儀というのは神聖で
厳かなものなのだということを
改めて再認識しました。
こういうことが残っている地域もあるということは、
昔は、参加する町の人たちも祭りの際には
当たり前のように精進し心身ともに浄め、
祭りに備えていたのではないかと思いました。
(太古の昔の日本の人々は、もしかしたら禊という行為は
すべての人が、町や村、家族の間でどうやってするのかなど
子々孫々と伝承されていて、
どうやってするのか認識していたのではないか!?
とさえ思いました。)
今は、時の流れにより、参加する町の人たちも
祭りに備え、禊をする行為自体が薄れていってしまったのかも
しれませんが、昔の人は、『なぜするのか』
『そのためにはどうやってするのか』本質的なことを
知った上で、時間をかけて禊をしていたのではないかと思います。
たまたま、テレビを付けたらしていた番組だけれど、
きっとここに書くために必要だったのだと思っています。
これを書くまでは、何だかどうしても
人の禊についての、説得力がなくて、
ブログをアップすることが出来ませんでした。
これで漸くブログをアップすることができますが、
もっと深く禊ということについて、
本質的なことを含めて學びたいし、
その事を知っておられるかたに
話を聞かせていただきたいとも思うようになりました。)
エネルギーのある物質で作ったモノ、
そしてそれで作った輪っかには、
それなりのエネルギーがあると思う。
だからこそ、側にあるのは心地よく感じるかもしれないけれど、
人體への使い方は、考えなくてはならない部分でもあるのではないか?
と思うのでした。
それから、結界つながりで、少し感じたことを書いてみようと思います💡
最近、たまたまに目に触れた記事を読ませてもらって
ふと思ったことでもあるんですが、
結界を張る行為などは、一般の人がいくら真剣であったとしても
することではないのかもしれないなぁということ。
そういうことは、空海さんみたいな人。
結界を張るときの危険性や何かあった時に回避できるような術をもつ専門家が
するような行為なのだろうな~と、ふと思いました。
すべてを知った上で、するしないを決めるのは、
本物でしか出来ない行為のように思います。
壮大になればなるほど、当事者本人の命にも関わることもあるのでは
と思うからです。
(修行は日々の鍛練。ある意味、○道というものに通じていると思っています。
(○道→神道、古神道、仏道、武道、弓道、剣道、合気道、
古武道、柔道、華道、茶道、香道など)
そんな簡単には身に付かないものだというのはお分かりいただけると思いますが、
すべて、型(所作)や精神が整わないと出来ない部類のモノだと感じています。)
誰かが言ったから『それが世のためになるならば』といってする行為って、
本当に安全なのだろうか?と感じてしまって。。。
人の為とかいて『偽り』と書きますしね。
すごく重なるんです
●例えば、
メディアで、『こういう食べ物、體にイイよ✨』っていうのを
鵜呑みにしてみんながこぞって買うみたいな感じと。
わたしは、それを鵜呑みにして、
口には美味しかったので食べていたら体調崩しましたし💦
その行為をメディアをみて食べて体調不良になっても
責任とるのは自分じゃないですか💡
(その食べ物が本当に自分に合うか分からないですし。
当然、それに関わってらっしゃるかたは実入りが多くなるとも思いますし、
それはステキなことだなぁと思います
そして、體に合う人には良いのだろうなとも思います
本当に自分に合うかどうかを見極めるって
とても大切なことなのではないかなぁ💡と思っています。
人はみんな違って当たり前なので、イイワルいではなく、
『合うか合わないか💡』
『快か不快か💡』
『自分にとってどうなのか』を知る手掛りに
なるのだろうなと思います。)
イイものだから💡(イイ素材をつかっているから)と言って、
個々にとっての使い方を間違えたり、
イイこと言ってはるな💡と思って、便乗することは、
弊害もなきにしもあらずだなぁと思いました。
↓(そして補足)
☆.。.:*・゜☆.:*・゜☆.。.:*・゜☆.:*・゜☆.。.:*
この感覚は、読んでくださったすべての人に
あてはまるものではないのかもしれないです。
自分の常識は、周りにとっての非常識であったりもする。
1日のご飯が三食が合う人もいれば、2食でいい人もいる。
1食で大丈夫な人もいる。
そんな感じで、感覚なんて、
みんな違ってみんなイイし、
みんな違って当たり前の世界に
わたしたちは生きている。
あと、術者と同じようにしなくても、ただ手を合わせて祈る。
その行為はとても神聖で、暖かな光を放つものだとわたしは思います。
何かアイテムを使ってする行為、
作法や所作を伴うもの、に関しては注意が必要だと
感覚的に思います。
だって、その行為の中の所作やアイテム、順番を、
1つでも間違えてはいけないのだろうとも思うから。
だから、修行というものがあるのでしょうし、
心身ともに成長と言いますか日々鍛練が必要なのだろうと思います。
風の時代になったからといって、その根底の大切な部分は
基礎となる土台部分なので変わることはないのでは?と感じています。
そういうことに携わっておられるかたは、
清濁合わせてちゃんと認識されていると思うし、
目に見えない部分に関わることに対する危機感や危険性は
熟知されていると思うからです。
それを一つでも間違えたり、
それを伝えた人と聞いた人の認識に少しのズレがあるだけで
それが歪みとなり現れるものだと、わたしは思うんです。
人が集まれば集まるだけ、その歪みは大きくなる。
わたしは、
ただ手を合わせて祈るという行為、
それは間違いようのない、人がDNAから引き継いだ
行為だと思うのです。
DNAに組み込まれているのであるから、
そこには間違えるということはあり得ないのではないかと。
簡単なことでも、1つ1つの祈りが重なれば
大きな祈りになると思っています。
何だか今日は、うまく纏めきれずに、
あっちこっち話が飛んでいたような氣がしますが、
この備忘録の根底にあるテーマを、
分かる人には分かってもらえるのではないかなぁと思っています。
☆.。.:*・゜☆.:*・゜☆.。.:*・゜☆.:*・゜☆.。.:*
今日もこうして目を通してくださった皆さん、
ありがとうございます