最近俺はYOSHIKIの生まれ変わりであることを感覚で理解したのだよ。
あと7000秒余りをもって私の人生の半分は終了してしまうだろう。時間と言うものは平等に流れているわけではない。
明らかに、流れる速度を、密度を変え続けるのである。
便宜的に秒という単位を与えてはいるがそれは
物理的な見地からしか時間を定義できていない極めて脆弱なシステムである。
それは君たちがローティーンだった頃の一年の長さと、
去年のそれとを比較してみればおのずとわかるだろう。
青年期に至るまでの時間の濃度で人間の、
後天的に伸びる素養というものはあらかた形成されてしまうのではないか
という俺の仮説は、才能の無さを自覚してしまった自分の首を絞めるものだ。だが努力無き天才がいないように、
合理性と建設的発想を欠いた20年間の質と量が、わたしの可能性と方向性を限定してしまったということはもはや否定しがたい。そして、これからはその軌道修正を如何に丁寧に行うかという作業領域であると確信する。そしてこの諦念を認識する能力こそ客観性の獲得にもっとも重要なパラメータであり、それは慣用的に言われる「強さ」というものとさしたる差はないように思えるのだ。
そう、これは詩的表現でも感傷でも比喩でもない。
今日、わたしの半生は終わった。
あーもう
あと7000秒余りをもって私の人生の半分は終了してしまうだろう。時間と言うものは平等に流れているわけではない。
明らかに、流れる速度を、密度を変え続けるのである。
便宜的に秒という単位を与えてはいるがそれは
物理的な見地からしか時間を定義できていない極めて脆弱なシステムである。
それは君たちがローティーンだった頃の一年の長さと、
去年のそれとを比較してみればおのずとわかるだろう。
青年期に至るまでの時間の濃度で人間の、
後天的に伸びる素養というものはあらかた形成されてしまうのではないか
という俺の仮説は、才能の無さを自覚してしまった自分の首を絞めるものだ。だが努力無き天才がいないように、
合理性と建設的発想を欠いた20年間の質と量が、わたしの可能性と方向性を限定してしまったということはもはや否定しがたい。そして、これからはその軌道修正を如何に丁寧に行うかという作業領域であると確信する。そしてこの諦念を認識する能力こそ客観性の獲得にもっとも重要なパラメータであり、それは慣用的に言われる「強さ」というものとさしたる差はないように思えるのだ。
そう、これは詩的表現でも感傷でも比喩でもない。
今日、わたしの半生は終わった。
あーもう