九州のある場所に行ってきました。
その場所は、東洋一の陸軍飛行場跡地に建つ戦争博物館で
「大刀洗平和記念館」という所です。
静かな田舎町の一角に建てられています。
特攻隊員が多く出撃したことで有名な鹿児島の知覧飛行場がありますが、そこはこの太刀洗飛行場の分校だったということです。
そのことを私も初めて知りました。 (;^_^A
知覧の特攻平和会館には行ったことがありましたが、この大刀洗平和記念館には行ったことが無かったので、いつかは行ってみたいと思っていて、今回ようやく行くことができました。
この太刀洗飛行場は飛行学校や航空教育隊となり、太平洋戦争末期には旧陸軍特攻基地の中継基地となりました。小学校を卒業したくらいの若き少年がたくさん全国から集まり飛行機乗りの訓練を受け、
そこから特攻兵として飛び立っていったとのことでした。
実際に空襲に遭った地元の方のお話を聞くことができました。
1945年3月27日、太刀洗飛行場を目標とする米軍のB29爆撃機の大編隊による初の空襲に見舞われました。
小学校の児童たちは、必死で逃げたといいます。この時、目的地とは違う方向に米軍は試しに爆弾を落としたのですが、その爆弾が頓田の森へ投下されそこに避難していた児童が亡くなりました。
一番印象に残ったのが、B29の話です。
会館の天井一面にB29の実物大模型でその大きさを表していましたが、日本の特攻機に比べるとその大きさは比較にならないほど大きく、どれほど脅威だったかがわかります。
上空に舞うB29に突撃していった飛行機が一機あったそうです。
その飛行機はやがて明るい光を放ち、B29に体当たりしたそうです。
太刀洗飛行場から飛び立った特攻機です。
すると、B29がひらひらと上空から落下していく様を今も鮮明に覚えているとのことでした。
会館の中には、その特攻機に乗っていた隊員23歳とその特攻機に追撃されて亡くなった米兵数名の名前と写真が掲げられていました。
このように敵も味方も無く戦争で命を賭していった兵士に対して敬意をもって
展示されていることに感銘を受けました。
※写真撮影がここしか許可されてなくて写したのがこれだけです
戦後に海外で発見され、唯一の現存機である零式艦上戦闘機三二型
コックピット
ここに一人で乗り込んで特攻されたことを思うと
胸が詰まります。
太刀洗空襲より転記
昭和二十年三月二十七日、午前十時ごろ、太刀洗を目標とする米軍のB29爆撃機の大編隊による初の空襲に見舞われたのである。折から、終業式の最中であった立石国民学校児童は警報と共に地方別に急ぎ帰途についたが、一ツ木地方の児童が生徒隊に至るころに、太刀洗の爆撃が始まり、このまま一ツ木に帰ることがあやぶまれ、引率訓導の指示により学校近くの頓田の森へ退避したのであったが、不運にも退避し終わった刹那、投下された爆弾により大多数の児童の命を奪ったのである。即死せし児童二十四名、重軽傷数十名の犠牲を出し、後刻死亡せし児童と合わせて三十二名という大惨事となったのである。一瞬にしてわが子を失った親の悲しみと切なさは、やがて平和を願い亡き子の冥福を祈る心の現われとして、遺族一同相はかり同年十一月二十日この延命地蔵の建立となったのである。この地蔵は、たとえ国家非常の時とはいえ、無垢で明るく天使のようないたいけな児童達の命を爆死と云う最も無残な姿で奪われた親心の、二度とくりかえしてはならない戦争への憤りであり、恒久の平和を願って止まない叫びであることを銘記すべきである。
太平洋戦争末期、昭和20年3月27日国東半島から進入した米軍のB29爆撃機の大群は太刀洗飛行場を爆撃しました。その時落とされた爆弾の一発が、この頓田の森で、立石小学校の児童31名を殺したのです。
太刀洗空襲戦没者 平和の碑
鎮魂
大義に殉じ 散華されたみ魂よ
親族同胞に想いを馳せ 故郷の空を夢みて 切なくも茲に眠る
永遠に安かれ
こちらも参照ください
陸軍太刀洗飛行場(太刀洗平和記念会館)について詳細が良く分かります
大義をもって散華された多くの英霊の皆さまによって
生かされている今を感謝し
戦争によって犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈りし
これからの日本がぜったいに良くなるように
この大変な世の中を生き抜いていくと
こころに誓った一日でした。
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