ルートの自由気ままなブログ

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音楽と文学をこよなく愛する大学生による喜劇的日常。

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今日からやっと、ゼミの対面授業が始まった。

 

某有名小説家の先生の授業というだけあって、ゼミ生の自己紹介を聞いているとみんな賢そうでおおっ、となった。

 

一週間ごとにリレー日記を書くという課題の説明があって、それでふとこのブログの存在を思い出して戻ってきました。

 

かつて毎日ブログを書いていた人間的には、リレー日記などお茶の子さいさい……というわけにもいかず、書く力の衰えを感じるなど。

 

***

 

おすすめの本の書評をするという課題のために、石原千秋『生き延びるための作文教室』(14歳からの世渡り術シリーズ)を読み進めている。

 

石原千秋は教育学部国語国文科の有名教授で、某ゼミの先生と大学(院)時代の指導教官が同じだったらしい(学年は被っていないが)。

 

石原先生(みんなは陰で千秋と呼んでいる、ちなみに千秋のファンは「チアキスト」と呼ばれている)の授業はめちゃめちゃ厳しいことで有名で、授業中あくびをした学生に怒鳴り散らしていたのを見たときはぞっとした。分かりやすいけど。

 

しかも皮肉も大好きで、ここまで書いただけで石原先生がいかにひねくれた人間か理解していただけると思う。

 

『生き延びるための作文教室』(14歳からの世渡り術シリーズ)というタイトルだけ見ても皮肉たっぷりで、世も末という雰囲気がムンムンに漂っている。

 

本文冒頭から、石原先生は「学校教育での『自由に書きなさい』という台詞は完全な嘘で、実際には書いていいこととダメなことの明確な境目である『ガラスの壁』が存在する」と喝破する。

 

また、「中高生は誰もが『個性的でありたい』と願うが実際には個性的な人間などめったにいないので、『個性的に見える』文を書けるようになるために努力するしかない」と断言したうえで、後半からは中高生向けに二項対立などを用いたテクニカルな文章講座が展開される。

 

こんな風にあらすじをまとめると「中高生に対してなんて冷酷な作文教室なんだ」と思われそうだが、石原先生の経歴を知ったうえで読むとまた違った感慨深さがある。

 

石原先生は日本近代文学におけるテクスト論(ざっくり言うと「本文だけを超丁寧に読んだら作者の意図を超えられるかもよ」流派)の先駆者であり、夏目漱石『こころ』において「先生」の死後「私」と「奥さん」が結ばれたという説を発表し議論を呼んだ。

 

石原先生の論文は決して「個性的」という訳ではなく、漱石研究におけるぼう大な先行研究の中で語りつくされていない部分を極めて緻密に探した結果生まれた論文のように見える。

 

実際、本文冒頭で「私自身の論文もまた『ガラスの壁』を突破できていないのかもしれない」と吐露しているように、この「作文教室」は石原先生自身が論文を書く上での葛藤を大いに踏まえていると思う。

 

さらに言えば、書くことは書いている自分を捉え直すことである。

 

「作文教室」で石原先生が中高生に投げかけた「個性的に見える文章を書き続ければ、いずれほんとうに個性的になれるかもしれない」という言葉は、「個性的」であることを求められる学校教育への痛烈な皮肉であると同時に、そんな中で「個性的」でなければならないという強迫観念に晒されている中高生へのエールのようにも見える。

 

千秋、ただの皮肉屋じゃない。大人にも響く人生哲学が存分に織り込まれているので、おすすめです。

 

(石原先生が万が一エゴサでこの記事を見つけた時のために予め謝っておきます、いろいろ書いてごめんなさい!!)

 

***

 

僕自身、高2~高3を境に、明らかに「大人になったな」というか、世渡りが上手くなったと思う瞬間がよくある。

 

「ガラスの壁」がはっきり見えるようになったのも高3以降だった。

 

もっとも、僕は「ガラスの壁」を「これ以上踏み込まなければ怪我はしないだろう」と判断するための防御壁として使っているのだが。(かつては「ガラスの壁」に正面衝突して大けがを負ったり、壁をすり抜けて大気圏外に出て酸欠になったりすることがままあった)

 

しかしそれと引き換えに、かつての僕の創作にあったはずの発想力がめっきり姿を消したような気がする。

 

世界一速く回る洗濯機を作るためにサラリーマンが頑張る話とか、天才科学者が細胞の分裂を止めるためにアロンアルファで細胞をくっつける話とか、構成はめちゃくちゃだったけど「なんか面白い」という感覚だけで書き進められた時代があった。

 

今は矛盾点を見つけるたびに筆が止まるし、そういう棘をひとつずつ取り除いた結果凡庸なものしか生まれないし、なんだかなあ、という気がする。

 

そんな僕に「テクニカルな文章力を磨いて『個性的に見える』ように努力しろ」と現実的な示唆を与えてくれたのが、この本だった。

 

石原千秋自身がこの本にそんな意図を込めたかどうかは分からないが、まあテクスト論の研究者なら許してくださると信じたい。

 

***

 

実は、まあまあでかい軽音サークルの幹事長を務めている。

 

社会性を身につけるための修行が主な目的だったのだが、びっくりするほど社会性が身につかず流石にびっくりしている。

 

世渡りが上手くなったことと引き換えに、一度凝り固まった性格(人と喋れないとか人と喋れないとか)は今更変えられなくなったということなのだろうか。

 

生き方を変えねばならないようだ。大変だ……。

※冒頭は太宰のパロディです。悪しからず。


死のうと思っていた。

もし自分が死ぬことになったら、死ぬ前に献血をしようと昔からぼんやり思っていた。

死に際くらいは人の役に立ちたいという自己満足からだろう。

ただ、考えてみれば一回献血をしただけでどれくらいの命が救えるのだろうか。

どうせ死ぬのなら、自分の血を全部搾りとってくれればより多くの命が救えるにちがいない。

でも、それは法律が許さない。

ならば、少量の献血を長い期間続ければ、より多くの命が救えるはずだ。

長い期間献血を続けるためには、より長く生きなければならない。

もう少し長く生きようと思った。



けど、この論理は「人は死ぬより生きている方がいい」という前提に基づいているので、その前提が正しいのかと問われると分からない……。この世は分からないことだらけ。

お久しぶりです。ルートです。

 

コロナ期間だからブログ書き放題だ、わーい、と当初は思っていたのですが、なんとなく食指が動かず忘れそうになっていた当ブログ、ぼちぼち再開したいと思います。

 

みなさんいかがお過ごしでしょうか。僕はオンライン授業の地獄の量の課題に苦しんでいます。

 

とりあえず出席代わりに課題出してきやがりますからね、ヤツらは。

 

 

それはそうと、最近「人文科学はイデオロギーとディレッタンティズムの傀儡を抜け出せないのではないか?」という疑念を抱いている。

 

例えば、寒いところにいるヤマアラシはお互い温めあいたいが身を寄せ合うと針が刺さるので近づけないというジレンマがあって、これをショーペンハウアーは「ヤマアラシのジレンマ」と呼んだ、という話がある。

 

もちろんこの話は人間にもなぞらえられていて、仲のいい人どうしでも適切な距離が大事、という教訓に使われたりする。

 

こういう話って、雑学として聞く分には「へー、心理学って面白いなあ」ってなるけど、実際人間関係に適切な距離が大事だっていう事実はみんなが知っていることであって、それ自体に学問的な価値があるとはとても思えない。

 

もっと言えば、ショーペンハウアーという有名な哲学者が言ったという事実もただそれっぽいだけで、これをソクラテスが言ってたって尾崎豊が言ってたってそれっぽさは変わらない。

 

つまり、この話の面白さは雑学としての面白さ(≒それっぽさ)であって、学問的な面白さではない。

 

他にも、フロイトは20代の頃の恋人が精神を病んだことがきっかけで恋人を知るために精神医学への道を志したが、結局その恋人は同じ精神科医のユングにとられてしまったという逸話がある。

 

もちろんこんな話は今適当に考えた嘘だが、それっぽければ面白い学問の話だと錯覚してしまう。

 

結局のところ、自分が授業で聞いた「面白い学問の話」(だと思っていたもの)はただの雑学でディレッタンティズム(道楽主義)の傀儡にすぎず、学問とは何の関係もなかったのでは?という気がする。

 

アイザック・アシモフは「人間は無用な知識が増えることで快感を感じることができる唯一の動物である」、アリストテレスは「全ての人間は生まれながらにして知ることを欲する」と言ったらしいが(「トリビアの泉」の冒頭。これらは多分ほんと)、「面白い」を基準にして集めた知識は面白くない知識を捨象しているから純粋な学問ではない。

 

同様に、学問としての歴史学や社会学もイデオロギーを正当化するための手段という側面が大きいように思える。(イデオロギーに基づかない歴史学者や社会学者はいるのか?)

 

学問は真実のすべてを広く見渡すことに意義があるが、真実が雑学の意義というわけではない。

 

では、あえて真実を知ること(つまり学問をすること)はどう面白いのか?と考えたときに、正直面白いとは思えない。

 

プラトンの洞窟の話でいえば、洞窟の外がただの殺風景な景色で中の影のほうが綺麗だったとしても、外に出ることがいいことなのか?というのに近い。


 

 

そんなわけで、今までやってきた学問の面白さが分からなくなった僕はいったいどうすればいいのだろう。

 

10日前くらいに突然このことに思い至って以来、授業へのモチベーションがゼロになってしまった。課題ためまくりで大変。

 

ここまで書いておいてなんだけど、結局僕はオンライン授業が退屈で暇だからこんな変な理屈をこねるようになっただけなのかもしれない。

 

リアル授業、早く再開してくれ~。

 

 

 

余談。人の名前はアイデンティティを形成する重要な要素だと思っていたけど、雑学は真実でなくても面白いという話からの連想で、人の名前とかアイデンティティとか実は超どうでもいいのでは?と思うようになった。

 

なので、バイト先でもらったフェイスシールドに貼ってあった自分の名前シールが超変換ミスってた(全3字中2字が違う漢字だった)のですが、特に指摘せずそのままつけてます。

 

まあ、言うタイミング逃したっていうのもあるんだけど……。

3月上旬、3週間くらいかけて大阪に帰省した。

 

1か月前くらいからバイトの休みをとっていたのだが、ちょうどコロナによる自粛が始まった頃だったので、結局休んだ期間はほぼ丸々臨時休校になってしまった。

 

働く予定になっていたら給料が出たのに。無念。

 

そんなバイト先も先週から授業が再開して(奇しくも僕が帰ってきたちょうどそのタイミング)、溜まりに溜まった休暇分の振替授業を消化するのに今めちゃめちゃ忙しい。

 

しかも、春休みで完全に昼夜逆転してしまったので、明日からの春期講習(朝8時半から)、起きるだけでも大変。

 

ちなみに最近はずっと10時寝5時起きでした。朝10時と夜5時です。朝8時半が深夜に思える。

 

 

コロナも大変ですよね。

 

報道によると今のところ日本では感染者が比較的少ないとされているようですが、第2波の襲来が懸念されていて予断を許さない状況。

 

〈参考:毎日新聞 2020/3/24〉

https://mainichi.jp/articles/20200324/k00/00m/040/211000c

 

イタリアやスペインの悲惨な状況がTwitterとかでたくさん流れてきて、これが日本でも起こるかもと思うと戦慄しますよね。

 

マスクが絶望的に手に入らない(あと単純にマスクが苦手というのもある)ので、丸腰で外に出るのが最近怖い。

 

手洗いうがいも極力気を付けてはいるけど、すでに自分が罹っていないとも限らないのがさらに怖い。

帰省しようにもバイトがあるし(働かないとお金がないし)、帰省先にウイルスを広げることにもつながりかねない。

 

今東京にいる時点で、かなり八方塞がり。どうしたものか……。

 

 

というわけで、暇つぶしに最近YouTubeを観ている。(暇じゃないけど)

 

ロザンが最近YouTubeを始めたのだが、これがけっこう面白い。

 

ロザンってすごく笑えるというタイプの芸人ではないと思うけど(ド失礼)、会話のテンポがいいので飽きないし聞いていて楽しい。

 

二人の会話を聞いていて気づいたのは、菅ちゃんと宇治原さんって、めちゃめちゃ仲良い割に考え方は180度違ったりする。

 

その代わり、語彙や背景知識が共通しているから会話が建設的。これが議論か、と思う。

 

「和して同ぜず」の典型を見た気がする。

 

 

この動画の後半が特に面白かったので、みなさんもぜひ。

2009年放送、松山ケンイチ主演の『銭ゲバ』というテレビドラマが1話330円でアマプラに出ていたので、3000円近く払って全話一気見した。

 

リアルタイムでも観ていたし、その後も韓国の違法サイトとかで幾度となく観てきたが、何度観ても飽きることがない。

 

そんなにテレビドラマをよく観るほうではないものの、今まで観たドラマの中で一番といっていいほど衝撃的だった。

 

あらすじ(漫画版のあらすじなのでドラマ版と微妙に相違あり)

蒲郡風太郎は幼少の頃から左目に醜い傷が有った。父親は最低のろくでなし、母親は気だては良いが病弱。それゆえ家庭は極貧で、ときには5円の金も無いほどであった。

貧しいながらも懸命に生きてきた風太郎にとって、心の支えとなっていたのは、母親と風太郎に優しく接する近所の青年であった。しかし、治療費が払えない母は病死、自暴自棄になった風太郎は盗みに走り、それを咎めた青年を手にかけてしまう。

それを機に、風太郎は生まれ故郷を飛び出し、成長して大企業の社長一家に取り入って、陰で金銭の為に殺人を繰り返すことになる。遂には、社長一家を死に追い込み、企業の乗っ取りに成功し、政界進出も果たす。しかし、栄耀栄華を極めた風太郎は、誰もが予想できない最期を遂げるのであった。

(Wikipediaより引用)

 

幼少期の風太郎がお金持ちの女の子・緑の家に呼ばれたときにマカロンが出てきて、そのおいしさに感動した風太郎がお母さんに食べさせようと、緑のいない隙にマカロンを盗もうとしたものの、それが緑にばれて絶交される、という第一話のエピソードがなんとも切ない。

 

何が切ないかというと、風太郎が「お母さんにも食べさせてあげたい」と緑に直接頼めば快くマカロンを包んであげていただろうに、そういう社会性や、人のものを盗んではいけないという倫理観が貧しさ故に育たなかった、という点。

 

さらに言えば、社会性や倫理観という「心の豊かさ」は、物質的な豊かさに左右されるという点だ。

 

「貧乏だけど心が豊かならいい」という、誰もが共感するオー・ヘンリー的世界を、このエピソードは全否定する。

 

 

また、『銭ゲバ』全9話を俯瞰しても、「大切なのはお金じゃなくて心」という言葉が物語全体を通して否定される構造になっている点は興味深い。

 

「大切なのはお金じゃなくて心」と繰り返し説いた母は治療費がないために病気で死に、風太郎を追う刑事は妻の病気の治療費を賄うために風太郎の前で「大切なのは金です」と言いながら頭を下げ、貧乏ながら幸せに暮らしていた近所の定食屋一家はドラ息子の借金返済のために「金!!」とヒステリックに叫びながら風太郎に包丁を突きつける。

 

そのようにして、風太郎は「大切なのは心ではなく金」という命題を身をもって証明しようとする。

 

そんな「自分の考えが間違っていなかったこと」を理由に風太郎は自殺するが、ほんとうに風太郎の考えは間違っていなかったのだろうか。

 

ほんとうに大切なのは、金か心か、どちらなのだろうか。

 

 

その手掛かりとして、風太郎に包丁を突き付けた定食屋の「大切な人を守るためなら、何だってする」というセリフについて考えたい。

 

このセリフはさらっと一回出てくるだけなので印象には残りにくいが、風太郎の「金のためなら何でもするズラ」というセリフに対置される重要なセリフである。

 

したがって、「大切な人を守りたいという気持ち」を特に「心」と定義することができる。

 

しかし、先述したマカロンのエピソードでは、倫理観や社会性が心の豊かさであるとした。

 

つまり、『銭ゲバ』における心には、「大切な人を守る気持ち」と「倫理観や社会性」の二種類がある。

 

風太郎が証明したのは、あくまで「人は倫理観や社会性を犠牲にしてお金を奪おうとする」という現実のみだった。

 

刑事も定食屋も、倫理観や社会性を犠牲にして得たお金で、大切な家族を守り、幸せを掴んだのである。

 

それに対して風太郎は、「大切な人を守る気持ち>お金>倫理観や社会性」という図式に気づけなかった。

 

それどころか、「大切なのはお金じゃなくて心」という母親の言葉、すなわち母親自身を裏切った。大切な母親を守ることができなかったのだ。

 

そこに、風太郎の悲劇がある。

 

母親が死んだことが悲劇なのではない。死んだ母親を信じることで、母親を守れなかったことが悲劇なのだ。

 

その証拠に、同じく家族を亡くしている刑事は、風太郎から弟(風太郎の幼少期に優しく接した近所の青年)の死の真相を聞かされたとき心の底から安堵する。

 

「よかった……それじゃ、弟が殺されるようなことをした訳じゃなかったんですね」と。

 

このシーンによって、刑事は弟を信じ、弟を守ることができた。だから、刑事は幸せになることができた。

 

そして風太郎には、それができなかったのだ。

 

 

もう一人、家族を亡くした重要人物がいる。大企業の社長の娘、緑だ。

 

緑の父は風太郎の指示によって射殺され、妹は風太郎を愛するあまり自殺した。

 

そして、緑は風太郎の死を見守った唯一の人物である。

 

緑は、これからどう生きるのであろうか。緑は、大切な人を信じ、守ることができるのだろうか。

 

今のところ緑は「大切な人を守る気持ち>お金>倫理観や社会性」という図式に気づいていないように思える。

 

マカロンのエピソードにおいて倫理観を優先し、風太郎の気持ちを理解せず否定したからだ。

 

今後この図式に気づかないままであれば、緑は第二の銭ゲバとして倒錯した人生を歩み、悲劇が繰り返されることになる。

 

もし彼女が家族や風太郎の死を受け入れ、彼らを信じ、守ることができたなら、それが風太郎にとって唯一の救いであろう。

 

その時、風太郎は幸せになれるのかもしれない。