水星が逆行中ですね
3月10日まで逆行ですか。
水星逆行といえば
・コミュニケーションのずれ
・忘れ物が多くなる
・電化製品が壊れやすくなる
・過去を振り返ることが増える
・交通機関の遅延
などなどが起こる時期
私は過去に氣になっていたことが、再び氣になるようになったりと。
ゆらぎを感じております
言いようのない心のゆらぎを。
自分は星回りをみても限界に近づくくらい色々と請け負ってしまう癖があるので、意識して休むよう心がけている。
うーん、ちょっと行動しすぎかな。
そろそろ積極的に休みたいね。
周りから見えれば、私は、のんびり過ごしているように見えるのかもしれないけれど、敏感なので疲れたりする
さて文学の方は、あらかた読んだので、今はミルの「自由論」を読んでいます。
自由論 (光文社古典新訳文庫) [ ジョン・ステュアート・ミル ]
1,166円
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ベタなところですよね。
しかし基本は大事でしょう。
去年「表現の自由」に関して、SNSで、とても話題になったので、改めて「自由とは何か」について学びたくなりました。
肉を食べることに対してもまた自由だと言う人は多くいますね。
ヴィーガンであれば、なんどもなんども聞かされる言葉だと思います。
それに対しての私の見解は、すでに以前のブログでも書いた(よね?)ので細かい部分は割愛します。
書いていなかった部分を書くとすれば…
人は菜食でも健康を維持できるので、痛みを感じる生物を食べる必要はない。
もし「(それが生きるために絶対的に必要ではなかったとしても)食べるために生き物を殺すのであれば許される」ということであれば、カニバリズムも許されるでしょう。
「カニバリズム(あるいは殺人)は犯罪なので許されない。」という意見もあるかもしれませんが、法律が必ずしも倫理的であるとは言えないかと。
(倫理に基づいて作られているとはいえ)
そして現状を照らし合わせて言えば、肉食それ自体は犯罪ではないので許されています。
(倫理的でないうんぬんどころか、環境破壊や水不足、飢餓問題の大きな原因になっているあたり、これから先、人類(動物、自然)が生きていくことを考えれば、非合理的な慣習やぞい!)
畜産に付随する環境問題に関してはカウスピラシーをどうぞ
(グロテスクなシーンは、かなり少ないです)
で、「自由論」は、まだ途中までしか読んでおらんのですが、興味深い箇所がありました
「どのような重要な真理についても、それに反論する者が存在しない場合には、あえて反対論者を想定し、もっとも巧妙な悪魔の代弁者が言い立てそうな最強の反論をぜひとも想像してみなければならない。」
そう、真理の追求のためには悪魔を召喚する必要がある
自分自身の意見を述べる際は、どういった反論がくるのか考慮しながら議論をする。
これは大事なことだと思いますし、議論の質を圧倒的に高めると思います。
その人自身の発言に論理的正当性というスパイスを与えてくれるでしょうしね。
私たちには学校で学ぶことの出来ないもの(あるいは学びきれないもの)が、たくさんあると感じます。
例えば、以前デートした方は私に「学校は金の稼ぎ方を教えてくれない」と言いました…
稼ぎ方も然りですが、議論の仕方について細かく学ぶこともなかったなあ、と。
記憶を手繰る限りでは。
調べたことを発表する時間なんかはあったけれども、それに関して真剣に疑問を投げかけ、議論をする、といったことがあったかどうか。
私、記憶にございません。
こうした機会を得られないというのは、論理的思考能力を鍛える機会を得られない、ということでもあるのでしょう。
自分たちの周りで起こっていることを他人事ではなく
・それらが個人としての自分にも影響を与えること
・個人としての自分もまた、それらに影響を与えているということ
と捉え真剣に向き合うことが出来るか、というのは、その人の人間性を培う上でも見過ごせない部分ですね。
私はSNSの投稿を韓国ドラマのCMの合間など(笑)に、ちらりとみますが、不毛なぶつかり合い(もはや不毛すぎて議論と呼べない)が特にツイッターあたりでは日常茶飯事で起こっているのを目にします。
そういったことが理由で一時期、ツイッターから離れていたわけですね…
だって、そんなのみてもポジティブな氣持ちにならないでしょう?w
けど面白い意見もツイッターにはあったりします。
で、ツイッターは短い投稿しか出来ないので、そもそも議論する場としては使いづらいでしょうね…。
不毛なぶつかり合いですが、これはあらかじめ発言する方々が
・反論を想定した上で発言する
・基本的な知識を得た上で発言する
(例えば、ヴィーガンに何かしら発言するなら、そもそもヴィーガニズムとは、どういったものなのか知らなければ話が成り立たない)
・相手を罵倒しない←とても大事(笑)
・発言を裏付けるソースを用意
あたりを氣をつければ、良い討論が出来るんじゃないかな〜
と言いつつ実は私は、議論するの…好きじゃなかったりして(笑)
理由は…疲れるから
基本的な知識をもっと得なければ!とも思うしね。
疲れるわりには一銭の得にもならんし…
あと罵倒するタイプの人が苦手。
(これは誰でも苦手だ)
罵倒しないタイプの人なら議論することも、まあまあある。
今まで英米文学を読んでいたくせに、いきなり「自由論」だとか、ちあき、どうした?と思われる人もいるかもしれないが…
私が社会哲学だとか倫理学だとかに興味を持ったキッカケというものが、やはりありまして。
(まだまだ学ぶことはあるけれどもね)
以前はニューエイジのスピリチュアルどっぷりで、自分の社会との関わり方が、どうにもユートピアなのでは…と考え始めたわけです。
それは、やはり人に嘘を吐かれたことがキッカケではあります。
人間の理性や道徳観などといものは、いまいち信用できないものだなあ、と。
(だからこそ神を信じるわけです。そして神というものは人間と違って絶対的に頼るべき存在です。しかし、これはニューエイジなスピリチュアリティに基づいた私の生き方なので、神という言葉を使って倫理的正当性を示すのは、ここでは不適切でしょう)
私はニューエイジのスピリチュアルによくある、人の女性性を重要視した生き方、つまり
・自身の内なる神性に問いかけ答えを得る
・ワクワクを大事にする
・ハートの声を聞く
など、これらの行為を非常に評価しています。
その人の心を豊かにし、愛に基づいた生き方へと導いてくれるものであると確信しています。
全ての人が神性を大事にして、自己愛を受け入れ、他者を愛することが出来たら、もう言うことなしでしょう。
地上はユートピア。
けれども、そういった生き方が何と言いますか、こと社会全体との関わりに関しては、自分が三酔人経綸問答に出てくる洋学紳士君みたいに感じられて…
今の人間の意識段階では、人間の善意に依存した社会構築は難しいんじゃね?
と思い始めたわけです…。
こうした変化をキッカケにニューエイジのスピ以外の本を積極的に読むようになりました。
つまり「今の人間の意識段階にあったベストな社会構築の探求」だったわけです。
全然話変わるけど、先日これ読みました。
林巧さんといえば「ピアノレッスン」が大好き(笑)
「叫」も読みました。
やっぱり日本のホラー小説は安定の面白さですね
英米文学専攻なので、英米文学を積極的に読むようにしているわけですが、ストーリーに入り込めるかどうかでいったら、やはり日本のホラーの方が…ね。
日本のホラー小説って、土着の儀式・風習が割と出てくるよね。鉄板だよね。
そこで謎の死を遂げた女性や子供の靈が現れるとか、そういう…
しかもホラー小説って結構ロマンチックだったりするんですよ。
幽靈になって好きな人に会いにくるとかも、まあまああるよね。
菊花の契りみたいだね。ベタだね。
やはり日常に重なる不思議や恐怖というものに惹かれます。
ホラーではありますが、こういった事柄もまた私を物質中心的な視点から、精神世界の視点へと引き戻してくれる。
そのように感じます。
こうした日常に重なる精神世界の片鱗は最近読んだマッケンの「白魔」でもみられると思います。
不思議というものは、リアリティと触れ合うからこそ、際立つものなのでしょう。
あ、今日のブログつまんなかった?(苦笑)
けどほら、真理の追求のためには悪魔を召喚する必要があるからさ