昨日続き 新・人間革命
◆小説「新・人間革命」
2月26日
[学光26]
佐江一志は、十八歳の春、友人の勧めもあって、定時制高校に入学した。
彼が定時制高校の四年になった、一九六四年(昭和三十九年)六月のことである。山本伸一は、第七回学生部総会で、創価大学の設立構想を発表した。
それが掲載された聖教新聞を、佐江は目にした。そこで伸一は、こう語っていた。
「その大学で、世界の平和に寄与すべき大人材をつくり上げたい。その時に、諸君のなかから、大仏法を根底とした、各専門分野における大教授が出て、教壇に立っていただきたい。その目的達成、すなわち世界の大指導者に育て上げるために、その大学で頑張っていただきたいと、お願い申し上げたいのであります」
佐江は、日ごろ、学会の男子部の先輩たちが、「祈りとして叶わざるはなしの信心だ」と語っていたことを思い出し、母に尋ねた。
「この信心は、必ず願いが叶うというのは本当かな。もし、そうなら、真剣に祈れば、俺でも創価大学の先生になれるのか」
ささやかな願望はあったが、本当になろうなどとは考えていなかった。なれないに決まっていると思っていたからだ。むしろ、信心に熱心な母親を困らせてみたいという気持ちの方が強かった。
しかし、予想外の言葉が返ってきた。
「なれますよ。なれますとも。お前がしっかりと題目を唱え、努力を続けていけば、絶対になれます!」
その声は、確信にあふれていた。母親の顔は、喜びで輝いていた。
佐江は、自分の可能性を信じてくれている母親の言葉が嬉しかった。
自分を信じ、期待してくれている人がいる――そう自覚する時、人は、大きな力を発揮することができる。
“よし、やってみよう!”
彼は、決意した。
二十二歳で定時制高校を卒業した佐江は、中央大学法学部の通信教育部に進んだ。
2月26日
[学光26]
佐江一志は、十八歳の春、友人の勧めもあって、定時制高校に入学した。
彼が定時制高校の四年になった、一九六四年(昭和三十九年)六月のことである。山本伸一は、第七回学生部総会で、創価大学の設立構想を発表した。
それが掲載された聖教新聞を、佐江は目にした。そこで伸一は、こう語っていた。
「その大学で、世界の平和に寄与すべき大人材をつくり上げたい。その時に、諸君のなかから、大仏法を根底とした、各専門分野における大教授が出て、教壇に立っていただきたい。その目的達成、すなわち世界の大指導者に育て上げるために、その大学で頑張っていただきたいと、お願い申し上げたいのであります」
佐江は、日ごろ、学会の男子部の先輩たちが、「祈りとして叶わざるはなしの信心だ」と語っていたことを思い出し、母に尋ねた。
「この信心は、必ず願いが叶うというのは本当かな。もし、そうなら、真剣に祈れば、俺でも創価大学の先生になれるのか」
ささやかな願望はあったが、本当になろうなどとは考えていなかった。なれないに決まっていると思っていたからだ。むしろ、信心に熱心な母親を困らせてみたいという気持ちの方が強かった。
しかし、予想外の言葉が返ってきた。
「なれますよ。なれますとも。お前がしっかりと題目を唱え、努力を続けていけば、絶対になれます!」
その声は、確信にあふれていた。母親の顔は、喜びで輝いていた。
佐江は、自分の可能性を信じてくれている母親の言葉が嬉しかった。
自分を信じ、期待してくれている人がいる――そう自覚する時、人は、大きな力を発揮することができる。
“よし、やってみよう!”
彼は、決意した。
二十二歳で定時制高校を卒業した佐江は、中央大学法学部の通信教育部に進んだ。
今日の聖教新聞
◆小説「新・人間革命」
2月25日
[学光25]
佐江一志の生い立ちは複雑であった。
彼は一九四三年(昭和十八年)に東京に生まれた。母親は、両国で料亭を営んでいたが、父親の記憶はなく、父については、何も知らされずに育った。
彼には、二人の妹がいた。妹たちは、母に育てられたが、彼は、千葉の祖父母のもとで幼少期を送った。小学校六年の時、母は料亭をやめて、東京・調布の理容店を買い取り、経営を始めた。佐江も、そこで、母や妹たちと一緒に暮らすことになった。
しかし、母親への反発から非行に走った。喧嘩も繰り返し、何度となく補導された。そのたびに、母親が引き取りに来てくれた。
「うちは、お父さんがいないんだから、お前がしっかりしてくれないと……」と語る母に、佐江は吐き捨てるように言った。
「そんなの、自業自得だろ!」
五八年(同三十三年)、母親が学会に入会し、信心を始めた。息子の未来を憂いてのことであった。
佐江は、中学校を卒業すると、理容学校に進んだ。彼の非行はおさまらなかった。
母親は、懸命に唱題に励んだ。彼には、母が自分のことを祈っているのが、よくわかった。それが、かえって、しゃくにさわり、ある時、後ろでギターをかき鳴らして妨害した。
母が振り返った。じっと、彼を見つめた。その目は、涙で潤んでいた。深い悲しみの目であった。佐江は視線をそらせた。心に痛みを覚えた。自分が情けなかった。
子を思う母の祈りが通じぬわけがない。祈りは、大宇宙をも動かすのだ。
六〇年(同三十五年)、佐江は理容師の免許を取り、店に出て働くようになった。
この年、彼も信心を始めた。必ずしも、仏法に共感したわけではない。さんざん母に迷惑をかけてきただけに、親孝行になればとの思いから、勧めに従ったのだ。
それでも、男子部の先輩について学会活動に参加するようになった。青年の使命を力説する先輩の姿に、心を打たれた。
2月25日
[学光25]
佐江一志の生い立ちは複雑であった。
彼は一九四三年(昭和十八年)に東京に生まれた。母親は、両国で料亭を営んでいたが、父親の記憶はなく、父については、何も知らされずに育った。
彼には、二人の妹がいた。妹たちは、母に育てられたが、彼は、千葉の祖父母のもとで幼少期を送った。小学校六年の時、母は料亭をやめて、東京・調布の理容店を買い取り、経営を始めた。佐江も、そこで、母や妹たちと一緒に暮らすことになった。
しかし、母親への反発から非行に走った。喧嘩も繰り返し、何度となく補導された。そのたびに、母親が引き取りに来てくれた。
「うちは、お父さんがいないんだから、お前がしっかりしてくれないと……」と語る母に、佐江は吐き捨てるように言った。
「そんなの、自業自得だろ!」
五八年(同三十三年)、母親が学会に入会し、信心を始めた。息子の未来を憂いてのことであった。
佐江は、中学校を卒業すると、理容学校に進んだ。彼の非行はおさまらなかった。
母親は、懸命に唱題に励んだ。彼には、母が自分のことを祈っているのが、よくわかった。それが、かえって、しゃくにさわり、ある時、後ろでギターをかき鳴らして妨害した。
母が振り返った。じっと、彼を見つめた。その目は、涙で潤んでいた。深い悲しみの目であった。佐江は視線をそらせた。心に痛みを覚えた。自分が情けなかった。
子を思う母の祈りが通じぬわけがない。祈りは、大宇宙をも動かすのだ。
六〇年(同三十五年)、佐江は理容師の免許を取り、店に出て働くようになった。
この年、彼も信心を始めた。必ずしも、仏法に共感したわけではない。さんざん母に迷惑をかけてきただけに、親孝行になればとの思いから、勧めに従ったのだ。
それでも、男子部の先輩について学会活動に参加するようになった。青年の使命を力説する先輩の姿に、心を打たれた。
2/23今日の聖教新聞
本部幹部会の入場前。
1997年12月9日。一足早い池田名誉会長の誕生日のケーキが届いた。
友の真心に『ありがたいね』と名誉会長。
『はい、頼んだよ』と香峯子夫人にナイフを手渡す。
わかりましたと夫人が切り分ける。
『役員の皆さんに差し上げよう』。
今度は名誉会長がナイフで一切れ取ろうとしたら、ケーキはごろんと横に。あら何なさってるの?明るい笑顔が広がった。
かつて病を押して戦う弟子を案じ、
『大作は30歳までしか生きられないだろう』
『自分の命を代わりにあげたい』と
慟哭した恩師。
不二の弟子は生きた。
『一人でいい。誰も頼らない。自分は師子だ』と。嫉妬の社会。時局は激動。その中で、世界への道を開く。
幹部会へ、名誉会長が入場した。威風堂々の歌の指揮。民衆の勝利を、師とともに!
大法城が歓喜に揺れた。
1997年12月9日。一足早い池田名誉会長の誕生日のケーキが届いた。
友の真心に『ありがたいね』と名誉会長。
『はい、頼んだよ』と香峯子夫人にナイフを手渡す。
わかりましたと夫人が切り分ける。
『役員の皆さんに差し上げよう』。
今度は名誉会長がナイフで一切れ取ろうとしたら、ケーキはごろんと横に。あら何なさってるの?明るい笑顔が広がった。
かつて病を押して戦う弟子を案じ、
『大作は30歳までしか生きられないだろう』
『自分の命を代わりにあげたい』と
慟哭した恩師。
不二の弟子は生きた。
『一人でいい。誰も頼らない。自分は師子だ』と。嫉妬の社会。時局は激動。その中で、世界への道を開く。
幹部会へ、名誉会長が入場した。威風堂々の歌の指揮。民衆の勝利を、師とともに!
大法城が歓喜に揺れた。