結局小高に居たスタッフは、何とか家に帰宅し、原町から行った女性も無事でしたが、当日の通夜に移動していた担当と、御遺体は連絡がつかない状態でした。

原町としては何とか通夜の準備が整い、余震の続く中通夜を開く事が出来ました。回送者も被災された方が多く、顔を出しては

「まだ、家の人が見つから無いんで、帰ります」

と、言う人が多く少人数の通夜になりました。通夜中も余震による被害を出さない様に注意を呼びかける等、いつもと違う緊張感がありました。

家の方も何とかカミさんも息子も無事でした、かなり怖かったみたいです。何とか息子を連れて実家に避難してもらっていたので、私も仕事終わってカミさんの実家に向かいました。実家ではライフラインが寸断された為、納屋と実家の子供達は車に避難してました。父や弟とラジオで津波の情報と避難所の話を聞きながら、えらい事になったと、ジワジワと実感が湧いてきました。
私は被災地である、福島県南相馬市で葬祭業に従事している者です。今回の地震で起きたことを忘れない為にも、すこしづつではあるが何か記録を残して私の家族や友人知り合い、そして亡くなった方の生きた証を残そうと思う。

3月11日
いつもの朝が来て、いつもの仕事を始め、いつものお昼が過ぎて、いつもの仕事の準備が始まるはずだった、

2時46分

「それ」は起きました
事務所の中でやり過ごすつもりが、どんどん揺れが大きく長く続き、取るものも取らずに外に避難しました。電柱はグラグラと傾き、電線もブランブランと揺れ続け、建物も上下左右に揺れ、地面からは噴煙が出て、自分達も周りにある手摺りに掴まっていないと倒れそうな揺れでした。幸いなことに会館は丈夫な造りで、外側は壊滅的な破損はありませんでしたが、内部は生花が倒れ、シャンデリアの一部が落下、天板が外れ天井の壁が少し落ち、お通夜の準備をしないといけないと言うことで、余震の続く中とにかく掃除をしました。

この時はまだ事の重大さに気がつかなかったんです。

掃除中一本の電話が入りました。小高区にある会館からでした。
「準備中のグラスが割れて全然無いから、原町から持ってきてくれないか?」との事でした。
こっちの予備のグラス類を持って、女性スタッフが小高に向かいました。また掃除を再開しました。家族の事も心配で、携帯に何度も連絡をしましたが繋がらずに心配しながらも掃除をし続けると、また小高から電話が入り、思いもよらぬ事態が起きていることに愕然としました。

「小高は水没してきてる、助けに来れる?今は胸元くらいまで水が来てる」

「?」

始めは何を言っているのかサッパリ理解出来ませんでした。周りのみんなに話をしても、まさか?本当に?と半信半疑でした。しかし、事実小高は浸水による被害で壊滅的な状況でした。幸いなことに人的被害は無く、スタッフ全員無事が確認できましたが、進水して来た時の恐怖は想像を絶するものだと思います。