その後は、養子清蔵重清(重次、亘理元宗四男)の時に所領没収となった。
伊達政宗の長子秀宗は、「大坂冬の陣」直後の慶長19年(1614年)12月28日、徳川家康より伊予宇和島10万国を与えられた。宗国の養子となった重清(重次、亘理重宗四男)は、秀宗に付いて宇和島に移ることを命じられた。それを辞退しようとしたが聞き入れられず、政宗の不興を買って、知行没収・追放の処分となったという。粟野氏はここで「没落」したとされる。
しかし、近代史文庫宇和島研究会編『家中由緒書』(同研究会)に収録された
「元和元年 秀宗公附侍名元幷五拾七騎名元」によると、政宗が秀宗に与えた家臣団(伊達五十七騎)には、粟野重清(清蔵)のほかに粟野豊後の名も見える。
享保六年 御家中由緒書による略系図によると
粟野宗国の二男の粟野盛国(豊後)(庄右衛門)が同行し宇和島での初代となる。
その後は幕末まで、宇和島藩伊達家の家老として、宇和島城汐入御門の内側に住んでいた。
宇和島 粟野家 第15代当主粟野展和(ひろかず)氏記載だが、定かではない
また、江戸期に記された『仙台藩家臣録』によると、
宗国の嫡子に左右衛門がおり、その嫡子に与五右衛門がおり、正宗の小姓に召し出され、
左右衛門母に4人扶持加増されたとある。与五右衛門は明暦元年(1655年)に病死、
名跡は嫡子・九郎太郎が継いだ。知行は13貫800文になった。
仙台藩士(知行高200貫文、虎之間番士)となっている。
その後、度々養子を迎えながら名跡を守り続けた様子がある。
なお、「藤原姓粟野家譜」を裏付ける史料は残されていない。活動の一端が史料に現れるのは、長国以降であることを留意したい。
