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50歳からの執筆ブログ

50歳を過ぎてからの自己成長を、自分を実験台にして取り組んでいます。

「おはようございます」「失礼します」「お疲れ様です」

私たちは一日のうちに何度も挨拶を交わします。しかし、その一つひとつの挨拶に、どれだけの命が吹き込まれているでしょうか。

もし、あなたが挨拶をしたつもりでも、相手の耳に届いていなかったとしたら。それは厳しい言い方をすれば、何もしていないのと同じ、あるいは相手に不快感を与える分だけ、しない方がマシな行為に成り下がってしまいます。

 挨拶の定義を再確認する


そもそも、挨拶とは何でしょうか。辞書を引くと、そこにはこう記されています。 

「人と人とが出会ったときや、別れるときに交わす儀礼的な動作や言葉。相手に敬意・親愛の意を示す行為で、対人関係を円満にし、社会生活を円滑にするもの」

ここで注目すべきは、挨拶が相手に敬意・親愛の意を示す行為であるという点です。

つまり、挨拶の主役は自分ではなく、常に相手にあります。相手の存在を認め、敬意を払い、良好な関係を築こうとする意思表示こそが挨拶の正体です。

そう考えると、一つの明白な事実に行き当たります。 相手に聞こえていなければ、敬意も親愛も伝わるはずがないということです。

 言えばいいという慢心が生む形骸化


しかし、現代の社会を見渡してみると、言えばいいという意識で挨拶をこなしている人があまりにも多いように感じます。

特に多いのが、下を向いたまま、あるいは作業をしながらの「ながら挨拶」です。しまいには、口の中でボソボソと何かを呟いているだけで、何を言っているのか判別できないケースも珍しくありません。

本人に悪気はないのかもしれません。私はちゃんと言いましたというアリバイ作り、あるいは自分の中のルーチンを消化しているだけ。しかし、それはもはやコミュニケーションではなく、単なる音漏れです。

相手からすれば、無視されるよりも、適当に扱われている感覚を強く抱いてしまうことさえあります。

 いらっしゃいませに込められたはずの魂


例として、接客業における「いらっしゃいませ」という言葉を考えてみましょう。

いらっしゃいませとは、訪問者や来客を歓迎するための丁寧な表現です。その本質は歓迎にあります。

わざわざ足を運んでくださってありがとうございます、あなたを心からお迎えしますというエネルギーが乗って初めて、その言葉は価値を持ちます。

しかし、現実はどうでしょうか。 入店しても店員の目も合わず、背中越しに、あるいは作業の手を止めずに、力のない「しゃっせー」という声が飛んでくる。そこに歓迎の意は存在するでしょうか。

聞こえなかったり、適当に投げつけられたりする言葉は、もはや「いらっしゃいませ」ではありません。それはただの記号であり、無機質なノイズです。本質を失った言葉は、相手の心を動かすどころか、お店の信頼すら損なってしまいます。

歓迎しなければいけない場面で、歓迎を伝えない。これは、言葉の役割を放棄しているのと同じなのです。

 世の中に溢れる本質を失ったもの


挨拶に限らず、私たちの周りにはこのように本質を失ったものが溢れています。あるいは、本質を知ろうともせずに、ただ習慣として、あるいは義務としてやり過ごしている事柄が多すぎるのです。

形だけの会議、心を込めない謝罪、とりあえず提出するだけの報告書、目的を忘れたトレーニング。

これらはすべて、挨拶と同じ病を抱えています。 なぜそれをやるのかという根源的な問いが抜け落ち、手段が目的にすり替わってしまっているのです。

多くの人が、形だけをなぞることに終始し、その奥にあるはずの目的や相手の存在を忘れてしまっています。本質を失った行動は、どれだけ積み重ねても空虚なままです。

 自問自答が日常を学びに変える


私たちは、もっと自分自身に問いかける必要があります。

・これはなぜやるのか? 
・何のためになるのか? 
・やる必要があるのか?

この自問自答こそが、漫然と過ぎ去る日常に意味を与えます。

挨拶を届けるという小さな一歩であっても、相手に届く声のトーン、表情、タイミングを意識する。それだけで、日常は一変します。

ただの習慣だったものが、自分を磨くための場となり、他者との絆を深めるための真剣な活動へと進化するのです。

日常の些細な動作一つひとつに「なぜ?」をぶつけることで、私たちは多くのことに気づけます。

「ああ、自分は今、作業を優先して相手を軽んじていたな」
「今の言葉には相手を敬う気持ちが乗っていなかったな」

という気づきこそが、人間としての深みを作ります。

日常から学べることは、実は驚くほど多いのです。それに気づけるかどうかは、自分が行っていることの本質をどこまで追求できるかにかかっています。

 終わりに:伝わってこそ、言葉


挨拶は、放たれた瞬間に消えてしまう音の連なりかもしれません。しかし、それが相手の心にしっかりと届いたとき、そこには確かなつながりが生まれます。

「聞こえていなければ意味がない」

この厳しい事実は、裏を返せば、しっかり届ける意識を持つだけで、あらゆる人間関係は劇的に改善するという希望でもあります。

今日から、挨拶を作業にするのはやめましょう。 相手の目を見て、相手の耳に届く声で、敬意を形にする。 その小さな、しかし本質的な積み重ねが、自分自身のあり方を整え、社会生活をより豊かで円滑なものにしてくれるはずです。

本質を見極め、自問自答を繰り返すこと。その姿勢こそが、日常のすべてを価値ある学びに変えていく唯一の道なのです。

 あとがき


ここの文章は、わたしが常日頃から感じていることを表したものです。

「挨拶しよう」と言われて挨拶する挨拶は挨拶ではない。

わたしはそう考えています。挨拶には自分の心が乗らなければ挨拶ではないわけです。

正直、「シャッセー」でもいいんです。心が乗った「シャッセー」は人を明るくさせる「シャッセー」になります。

大事なことは、本質を理解できていないということ。そして理解できていても忘れる時があるということです。

当たり前のことを当たり前にできるようにする。シンプルですが、この心がけ一つで生き方が変わると思います。

 

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