ティエリーさんがそのお話してくれた内容を出していいとおしゃっていたので、ここで公開いたします。
2012年3月10日
アフリカ11年の経験からのお話
テーマ:平和のための教育
わたしの名前はティエリー・デミエ、フランス人です。日本に16年間住んでいます。町田市の公立の小学校で英語教師をしています。日本に来る前は、アフリカでボランティアで教育の仕事をしていました。アフリカの貧しい村や都市のスラム街に幼稚園や小学校を作っていました。
アフリカでのわたしの仕事について皆さんにお話しする前に、まず、じゅんさんとゆうきさんにお礼を言わせてください。2人のおかげで今夜のイベントを開催できたこと、また皆さんの前でお話しする機会をいただけた事に対してお礼を申し上げます。
6年前にじゅんさんのホームページをインターネットで見つけました。彼女の世界観に共感し、彼女がわたしと同じ考えの人だと知りました。そしてわたしは彼女と連絡をとり、仲良くなりました。彼女とはそれ以来、常に連絡を取り合い、世界をいかに意味のあるものとして変える手助けができるか、という夢について語り合ってきました。
そして今年、じゅんさんからわたしのアフリカでの経験についてスピーチしたらどうか?という提案をいただき、わたしはすぐにやろうと決めました。しかし、その数日後、私は自分自身に問いかけてみました。アフリカでの経験からとても長い時間が経っている今、本当に皆さんの前でスピーチができるのだろうか?と。しかし、最後には、とにかくやってみよう!と決心し、今、こうして皆さんの前に立っています。
話の核心に入る前に、まずはわたしがなぜボランティアの仕事を始めるようになったのかという経緯についてお話させてください。
わたしは1958年に生まれ、10人の兄弟姉妹と一緒に農場で暮らしていました。農場の生活は素晴らしいものでした。食料は豊富にあり、たくさんの家畜を飼っていました。遊ぶためのスペースも十分にありました。小さな馬も飼っていて、よく乗馬をしたものでした。
しかし、すべてのことがよく、幸せなわけではありませんでした。
1.わたしの両親は定期的に動物を殺していました。そしてわたしは毎回それを見るのが嫌で仕方ありませんでした。食べるためにやむを得ない事は分かっていましたが、どうしてもそのような事を受け入れられなかったのです。
2.当時は世界中に、そしてフランスにも「緑の革命」がありました。農民は単式農法で野菜を栽培するためのスペースを広げるために森林や生垣を伐採ました。わたしは大きな木が大好きだったので、それらがひとつひとつ伐採されていくのを見るのは本当に胸が張り裂ける思いでした。
3.わたしの兄たちは長髪や破れたジーンズの事で両親と口論を始めました。わたしの周りの世界が急速に変化していくのを感じました。それは60年代の事でした。
そして1969年のある日、わたしは11歳でテレビのニュースを見ていました。突然、画面にビアフラの飢えた1人の少年の画像が飛び込んできたのです。ビアフラはナイジェリアの東南部に位置する地域で、当時はナイジェリアからの独立を目指してナイジェリア政府と実質的な戦争状態にあったので政府によって封鎖され、人々は飢えていたのです。
その映像はわたしの心を強く動かし、強烈な印象として残りました。その時わたしははじめて、別の国の別の場所では人々は自分たちと同じように運よく快適な暮らしをしているわけではないのだ、という事に気付いたのです。
わたしはベビーブームの世代で、たくさんの兄弟姉妹に囲まれて10代を過ごしましたが、それぞれが別々の人生観を持っていました。保守的な兄弟もいれば、革新的な考えの兄弟もいました。わたしたちはよく口論したものです。しかし結局はお互いを理解する方法は見つかりませんでした。お互いに正反対だったのでしょう。
それで、わたしは1978年、高校を卒業後、家を出て働きは始めました。1人暮らしを始めたのです。平日の夜と週末はカフェで友達と会いみんなで世界を変えることについて何時間も語り合ったものです。
わたしは有機野菜を育て、服や靴を自分たちで作っている、ある田舎のコミュニティーでの暮らしを選びました。わたしたちは60年代のヒッピーというより、むしろ世界のために何か具体的な事をしたいと考えていた70年代のエコロジスト(環境保護活動家)でした。
わたしは南アフリカの反アパルトヘイト運動やフランスにおける原子力の増大に反対する運動に影響を与えた社会運動家にもなりました。
しかし、今までのそれら全ての活動にもかかわらず、わたしは人生に何かが欠けていると感じました。それで私は人生の共通の深い目的を分かち合える人々を探し始めたのです。もっと直接的に人々を助けたいと思ったのです。
そして、1980年、22歳になった時、インドのある救援組織のメンバーと出会いました。その人はわたしの良き指導者になりました。数年間のトレーニングの後、わたしはソーシャルワーカー(民生委員)として働く準備ができて、アフリカへと旅立ったのです。
フランスからアフリカまで
私の最初の転勤は、西アフリカにあるアビジャンというコートジボアールの街でした。最初、私は安いチャーター機でワガドゥーグー経由でブルキナ・ファソまで飛びました。
目的地にたどり着いたのは、夕方でした。飛行機から出てきたとき感じたのは、灼熱の炎のような熱でした、アフリカに着いたと実感しました。
私は、あのアフリカにたどり着いた時のことを忘れはしません。熱や暗闇だけでなく、武装兵士が飛行場の周りのあらゆるところにいたことが、強烈に記憶に残っています。
しかし、兵士は礼儀正しかったのです。そして、私を含むすべての乗客は、彼らのホテルに連れられ、私は早くベッドで眠りにつきました。その翌日、私はコートジボアールまで電車で行きました。そうして、私の10年のアフリカの冒険は始まりました。
Africa
それから8年間、わたしはアフリカのたくさんの国で仕事をしました。最初は西アフリカで主に小さな村々や大都市であるアビジャンやガーナの首都アクラなどのスラム街で学校を建設しました。
しかし、わたしはそこで大きな困難、マラリア、に直面したのです。コートジボワールとガーナにはたくさんの森があり、そこから発生する蚊が病原菌をあらゆる場所に運んでいたのです。そこでわたしは数年間の間、定期的にマラリアにかかった後、マラリアの症状が比較的軽い南アフリカに移りました。
そこではわたしの仕事の内容も変わりました。わたしは私達の組織がまだ訪問したことのない国々に派遣されることになり、内紛後のモザンビ―クへ赴きました。
モザンビ―クでは、わたしたちの組織を正式に登録しようと試みましたが基金不足のため、それは実現しませんでした。わたしはたびたび福祉事業を継続するための基金集めに南アフリカに戻らなければなりませんでした。
ナイロビとケニアにもアフリカの本部への報告のため、また、アフリカ全土で働く私の仲間達に会うために定期的に訪れました。仲間たちも皆、わたしと同じように福祉事業を続けるための基金が不足している事を知りました。
Somalia
しかし、1992年に入って突然、状況は一変したのです。わたしは緊急教育プログラムを開始するためにソマリアに行くように求められました。それはわたしにとって衝撃的でした。なぜなら、当時ソマリアは戦争地帯になりつつあったからです!しかし、それは、本当の意味で人々の人生を変えることのできる人生の絶好のチャンスだとわかっていました。
ここにいる皆さんの多くもテレビや新聞でソマリアの事はご存じでしょう。去年の10月、ケニヤ軍がアルシャバブの過激派を追いかけてソマリアに入りました。ケニでの連続旅行者誘拐犯とつながりを持つテロリストです。
1991年の1月に戻りますが、当時ソマリアはシアド・バーレ政権が崩壊して以来、無政府状態でした。残忍な部族による紛争と長年の降水量不足により、飢饉で死者が国中にあふれていました。
人々は飢え、再びビアフラや後の80年代に起こったエチオピアの大飢饉のような有様でした。飢えた子供たちの映像が世界中のテレビ画面や紙面に踊りました。
西洋諸国の人達はソマリアにお金を送り始めました。それで、すぐに私達の組織のスイスチャプターに基金が集まり私達は「死の町」と称されるバイドアに1991年に実情調査団を送りました。それはアメリカ主導の国連部隊「Restore Hope (希望を取り戻せ)」の軍事作戦のお陰で内紛終了直後でした。
国際NGOによって運営されている食糧配布センターで働く私達の派遣団によって撮られた現地の人達の写真があるのでやせ細った子供たちの写真を見ることができます。NGOのメンバーやバイドアの地域リーダーに会ったのち、私達の組織は教育的リハビリテーションのプログラムを強化することを決めました。
スイスに戻り、私達のチームはジュネーブや他の都市に住む数千人のスイスの人達に基金集めをアピールする手紙を送りました。そして救済のためのオフィスをソマリアに設立しそこで活動を展開するのに必要な基金を確保することができました。
私は1992年にバイドアに飛び、小さなホテルのなかにオフィスを設立しました。そして4名のボディガードを雇いました。なぜなら町は武器であふれほとんどの家族は銃をもっていたからです。(続く)



