北陸新幹線・上越妙高駅で下車して東口に出ると颯爽と馬に跨がった上杉謙信像が目に入る。

越後・春日山城(新潟県上越市)を居城とし、甲斐の武田信玄や相模の北条氏康と渡り合い、関東や信濃のみならず、武田信玄の要請により蠢動する北陸の一向宗徒による一揆にも手を焼いていた上杉謙信。

さらに越後国内においても反乱が頻発してまさに東奔西走というほどに出兵していたこの戦国武将が伝えられるほどに「義に厚かった」のかどうかは私などには知る由もないが、武田信玄や北条氏康に圧迫されていた北関東や信濃の豪族たちに助けを求められて出陣しては深雪に覆われる冬には兵をまとめて越後へ帰るという繰り返しをしていたわけだ。

武田信玄は侵略した土地の領民の心を掴む努力を怠らず、地盤を固めてから新たな領土拡大を行ったので「戦国最強」とも言われる武田軍団を構成したと伝えられているが、ゆえに天下を取ることができなかったともされている。
信濃を隔てた背後にある越後の上杉謙信とは北信濃の川中島の5度にわたる合戦で決着がつかず、これも信玄の京都への進軍を遅らせた要因でもあるだろう。
「もし、信玄と謙信が手を結んでいたら織田信長も豊臣秀吉も徳川家康もなかっただろう」
といわれるほどの軍団を組織していながらどちらも天下を取ることができなかったのは単に地理的に都から遠かっただけというわけではないだろう。
信玄が病歿し、続いて謙信も病歿したことは織田信長や徳川家康にとって「ツイていた」という以外ないだろう。

それにしても、冬は雪に閉ざされる越後を本拠地とし、しかも信玄のように着実に地盤固めをしていた武将とも異なる上杉謙信という大将の強さの秘密は何だったのか?
そんなことを考えつつ越路を旅してみるのも面白いかもしれない。