勝浦塩田遺跡は福岡県福津市勝浦に所在し、かつての海の中道の南端部と渡半島北端の森山山麓の東側に接した旧入り海の範囲内に位置する。行政区上は主要な塩田施設が塩浜区にあり、梅津区は塩浜区に接して関連施設の堀切が両区の接する位置にある他、入り海干拓の為に築かれた東西約650mの大土手(石堤)は塩浜区及び梅津区、 末広区、 大石区、 須多田区の境界ラインに位置する。
遺跡周辺の地質をみると、隣接する森山は花崗岩から成る基部上に玄武岩溶岩が乗る溶岩円頂丘で、ここに産する玄武岩は勝浦塩田に関連しての使用も確認できる。 森山から北に伸びる馬の背状砂丘は南半部から森山西麓にかけて更新世の古砂丘砂層が認められ、これより北は完新世の新砂丘砂層となり旧入り海最奥部の西東付近の 古砂丘砂層までを繋ぐように海岸部を南北に伸びている。 旧入り海は完新世の沖積地堆積物と近世以降の盛土により埋められるが、入り海を埋める海成層の貝化石の種群は終始内湾性のものである。塩浜を含む入り海は完新世のはるか昔から存在していた。
勝浦塩田は江戸時代前期の入り海干拓により成立するが、それ以前に塩田の下地となる製塩の記録があることは特筆すべきことである。 最も古い資料は宗像神社所蔵文書 「応安神事次第」 追捕の中にある永享9年(1437) のもので、 「塩斗(しおと)ハ預ノ役、 勝浦ヨリー旬ニー升、一色升(ます)ニテ預取沙汰スル也」 とある。 宗像神社に塩を納めた記録であるが、勝浦以外に塩に関する史料がないことから、 その製法や規模は不明であるが、 宗像氏が支配する領域の塩生産を一手にまかなっていたとする評価もある。
また、近世では勝浦塩田の干拓開始以前、慶長8年(1603)に黒田如水により出された勝浦浜の塩の慶長7年分皆済状(かいさいじょう)があり、勝浦において塩生産が連綿と続けられていた根拠といえる。このように伝統的に塩生産に関わってきた土地柄にあって、勝浦潟の干拓及び新田開発に関する江戸幕府の許可が下りたのは寛文3年(1663) のことである。福岡藩三代藩主黒田光之の治世に、家老の吉田六郎太夫知年の主導により3年後の寛文6年(1666)には干拓の端緒となる築堤が開始され、渡半島の付け根の森山東麓から大石山西麓の舌状台地先端部に至る長さ約650mに及ぶ寛文の大土手(石堤)が築かれた。 塩田の完成は寛文8年(1668)、これ以後製塩が始まったとされる。1800年初頭の頃と思われる勝浦塩田の絵図がカメリア歴史資料室に残っている。これを見ると、製塩用煙突が37本描かれている。その内白い煙は6本、残り31本は黒煙だ。生産された塩は筑前国以外でも取引され、帰りの船には石炭が積まれていたことから鹹水を煮詰めて塩を製する過程に燃料として石炭も使われたことが伺える。遠賀・鞍手では17世紀後半にはすでに石炭の発見・利用がなされ、1730年代から1800年代の間では生産と流通の社会構造が形成されていた。
また、南に隣接する津屋崎でも福岡藩営事業として入り江の干拓が行われ、千間土手が築かれて勝浦塩田の干拓から75年後の寛保3年(1743)には津屋崎塩田でも製塩が開始され、両塩田による塩の生産高は最盛期には筑前国全体の約90%にも達し、
「博多の味は津屋崎でもつ」と言われた。
入り海の南端、外海に接する津屋崎には江戸時代から明治時代にかけて 「津屋崎千軒」と呼ばれた町並みが今なおその名残を残すが、この千軒と呼ばれた繁栄ぶりも勝浦、津屋崎両塩田で生産された塩の出港としての発展に起因するものである。「筑豊沿海志」には「津屋崎は、筑前七千軒の一として、往古より世に喧伝せられ、その地の塩浜は、九州第一の大塩田として著名なりき。」 とあり、往時の繁栄を紹介している。江戸時代には藩直営で製塩が行われ、小作料として 「徳銀」を上納する方式であったが、明治維新後は製塩、流通組織が解体され、両塩田とも製塩の仕組みに変化が生じる。勝浦塩田は製塩業の専業者はなくなり、農業者が分業して製塩を行った。
その後、明治38年(1905)塩専売法により勝浦塩田および津屋崎塩田の製塩高は激減し、明治44年(1911)第一次塩業整理により生産高が少なく生産効率の劣る塩田は廃止されることとなり、福津市の両塩田はその245年の長き歴史に幕を閉じた。
※出典:福津市教育委員会 『「勝浦塩田遺跡」福津市文化財調査報告書第12集』2015年
作成:福津郷土史会 大賀、松永、古田、北原
期日:2025年11月1日