法律による権利・自由の保護から始まった近代民主主義でも、ソクラテス※の時代同様、衣食を多く持つ者のみ法律により保護するだけで、本来の法律による権利・自由の保護から外れ道心を失っている…。そして、まるでゲームのように人を殺す。
「一隅を照らす これ国宝なり」
『憚りながら』という後藤忠政氏の著書でもこの言葉が紹介されていた。
しかし、後藤氏の得度では問題になったそうだ。
【それにしても、最初から俺の得度を認めてくれた坊さんがひとりもいなかったというんだな。あの大きな天台宗の何千人もいるお坊さんの中でさ。
「悟りの世界は、すべての生きとし生けるものに平等に与えられている」という教えに基づいて、「多くの人々と共にその世界へ移行と互いに努める」と謳っている天台宗が、だよ。たかがヤクザやってた男ひとりが得度するっていうだけで、何をそんなに大騒ぎしなきゃならんのかと思ったよ。
けれど、住職はその時、こう言ってくれた。「もし後藤さんの得度が認められないならのなら、私が住職を辞めます。私は命を懸けてやりますから」と。「住職の地位や寺の財産なんか惜しくないから」って。それで総本山や周りの寺に随分掛け合ってくれたんだよ。】
言葉にするのは容易だが、実践するのは難しい。
例えば、「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」と同様の「ダイヤモンドより平和がほしい」という著書がある後藤健二氏・・・。
J.S.ミルは「満足した豚であるより、不満足なソクラテスでありたい。なぜなら、愚者は物語の片面しか知らないが、賢者は両面を知っているから」と述べている。また「高級な喜びと低級な喜びを区別する方法はただ一つ。両方を経験した人が、それを好むかどうかである」とも述べている。
本当にこの国の国民であってよかったといえるのはどちらの選択であろうか?。人間として生きた証を残したといえるのはどちらであろうか?。みなにも考えて※※もらいたいです。
※ソクラテス
※※考える
日本語練習帳』(大野晋著)の第一問に「〈思う〉と〈考える〉の違いを述べよ」という問題が載っている。
答えは、「思う」は選択肢のことは考えない。「考える」は選択肢がある。選択肢の中でよりよいものを選ぶという行為が「考える」ことなのだ。
倫理も自由意志を前提とするもので、選択の余地があり、その選択肢の中から自由意志で選び取るからこそ「倫理的」な判断が意味を持つ。