国家の暴力の独占が不当な暴力をふるうものに対する抵抗することを奪う結果になり、なのに国家は不


な暴力をふるうものを守る。なんとかせねば。


スポーツマンシップはルールを守る以外にも、審判がみていなくても、ルールになくてもフェアプレイに徹


することを求めるものである。


結果のみ求めるなら、そんなものは糞くらえみたいなもんで、ドーピングでもなんでももってこいとなるが


スポーツと市場経済の巻でもかいたが、それは本末転倒である。


人と話してると、そんな世の中でも生きていかなあかんから…みたいなことよく言われるが、悪いものは変


えていくべきだと思うが、損得で生きる人間は良いものまで変えてしまう。


悪いものを良く変えるのは難しいが、良いものを悪く変えるのは簡単である。


国家が暴力独占するなら、スポーツマンシップのような倫理を持った人間である必要がある。なのに日本は


、日本だけでないと思うが、反対のドーピングでもなんでももってこいのような人間が多い。


J・S・ミルの言った功利主義の批難がぴったりあてはまる社会になっている。


教育の失敗としか言い様がない。