慈悲の巻で自然に出来れば一番とか書いたが、今日は自然について書こうと思う。暇だしね…。
現代の日本人が使う自然の意味には、①「おのずから」という意味と②natureの訳語の「人間以外の事物」の意味がある。じゃぁ、それ以前の日本人は自然をどう言ってたのかというと、「天地」とか「万物」を使ってたと思う。色心不二とか依正不二とかいう言葉あるから、人間と人間以外の事物を切り離して考えることしなかったと考えられる。諸法無我と考えるか自我を考えるかの違いがここにもあらわれていると思う。
しかし、ネーチャーについては色んな考え方がある。ヨーロッパ、古代ギリシャにおいては、ネーチャーを生きた存在としてとらえた。生物の成長、物の落下、水の流れ、煙の上昇なども「本来の場所」への回帰であるという解釈がなされた。ガイア仮説につながる考えだが、大乗仏教の考えにも似ていると思う。
しかし、ネーチャーも何か意思があり、何か目的を持って、その手段として存在するのか?。
やっぱり、疑問も多く、欧米では機械論的自然観が主流である。
しかし、「宇宙も機械であるか」と言われるとどうとも言えない。
ギリシャ的自然観に対してヘブライ的自然観というのもある。神が自然あるいは世界を「無からの創造」によって産出し、人間が他の被造物を支配する地位を神から与えられたという自然観だ。
ネーチャーは生きてるか死んでるか、ネーチャーは人間のものか、人間もその一部か?。きれいなネーチャンなら俺のものにしたいが…(゚Д゚)ハッ、何言ってんだ俺。
自然については色々解釈できるが、ネーチャーは人間にどう関わってるかが現実に関わる問題だろう。
ホッブズは「万人の万人に対する闘争」
ロックは「平和な状態」ルソーは「素朴で平等な理想郷」
が、人間にとって自然状態と考える。ホッブズとロックについては何度か書いてるが、論点は資源は有限か無限かであった。
俺の先輩が言ってたが、「赤ん坊は手を握りしめてるが、幸せを握りしめて生まれて来るんや。生まれてついての悪人はいてへん」言ってた。
では何が人間を悪人に変えるのか?。俺は欲が人間変えると思う。
最後にこのようなさまざまな考え方できる自然の中で人はどう生きるべきなのか?。ホッブズやハクスレー、荀子など性悪説なら、倫理と自然は対立するものであり、それを人為的に押さえつけるところに倫理が成立すると考える。逆に孟子や朱子、ロック、ルソーなど性善説なら倫理は自然に即したもの、あるいはそのあらわれと考えるだろう。
近代は性善説に立つから自由なのだ。
果たして現代は性善説、性悪説どちらを選ぶ人が多い時代だろうか?。
政治家もその辺考えて欲しいものだ。