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松山千春がラジオで「口蹄疫は脱官僚政治からきた弊害だ」なんてことを言っていた。そりゃこじつけすぎだろ、と俺なんかは思った。政権交代で政治家と官僚の関係性というか、立位置が変化したことが各省庁の実務にまで悪影響を及ぼしているということを彼は言わんとしているのだと思われるが、果たして本当にそうなのかは定かではない。なんの根拠もない。確かに政権交代当初は政党の手法の違いから行政に混乱があっただろう。しかし、それが直接今回の被害の原因だとは言い切れない。ずいぶん適当なことを言うんだなぁと俺は感心してしまった。
普天間問題にも触れていて、「記者は鳩山の会見をばっくれるべきだ」と彼は言う。そんなもんは報道する価値すらないってことだ。面白いことを言うじゃないか。でもそのあとの一言がもっと面白かった。「資本主義だから暴力に訴えられないのが残念。だから無視するのがいい」おいおい、社会主義・共産主義は暴力を是認してないぞ。ビック・ブラザーのイメージからそういう発想が生まれるのは分かるんだけれども、その程度の認識しかない人間は迂闊に政治に対して発言するべきじゃないんだよ、と俺は言いたかった。
まあ、そういう俺の知識もたかが知れてるし、結構いいかげんなことも言っているから他人のことは言えないのだけれど。だから適当な彼といいかげんな俺は同類なのだが、俺は自分と同じことをする人間を見るのはあまり好きじゃない。上手く説明できないけれどそういうことってある。でも好き嫌いは別にしてミュージシャンが政治に口をはさむのは悪くない。なぜなら日本の社会にはリベラルな人間はパージされる雰囲気があって、誰も突っ込んだことを言おうとしない。だから彼みたいな無神経さって逆に素敵だなと思う。バカだと思われても開き直れる人間ってなかなかいない。ミュージシャン、あるいはロッカーってそういう人種なのかなぁと思ったりした。体制に中指を突き立てて、すべてにNoだと言える。
それに対して大多数の日本人は政治に対してイデオロギーを持たない。だから戦後60年以上続いた自民党政治においても、多くの日本人は自民党に対してこれっぽっちもイデオロギーを抱いていなかった。そこにあったのは単純な政治の原理だけだ。富の再配分である。それがにっちもさっちもいかなくなって機能不全に陥った。そこで昨年夏の政権交代が起きた。多くの人々はあっさり民主党に乗り換えたのだが、どうやら民主党は自民党以上に無能だったことに人々は気付いたらしい。どうしてこういうことになるかというと、それは国民が政治家になにを訴えるべきかが分かっていないこと、政治家も国民になにを訴えていいのか分からないことによっている。国民に、あまつさえ政治家にもイデオロギーが欠如しているのである。
それは日本の文化が、国民性がそうさせるのだと俺は思う。イデオロギーは押し付けがましいと思われている。酷い場合には、イデオロギーを振りかざすのは右翼だと勘違いされている。とんだ間違いである。イデオロギーとは観念を非歴史化・普遍化・自然化したものだ。故にイデオロギーを持たないこともイデオロギーでなのある。そのことに日本人は自覚的になるべきだろう。そもそも他国に一度も支配されたことのない国に政治的思想が生まれるのかということも俺は考えるべきだと思う。良くも悪くも日本は緩やかな天皇制統治のもとにその歴史を歩んで来たのだ。
そういったことを踏まえてある程度は妥協しよう。しかし、それにしても鳩山は酷過ぎる。民主党結党時に資金を支出したのが鳩山家だとはいえだ。あの総理は国益に適わない。近代日本の黒歴史が進行形で刻まれている。これも日本人の政治的イデオロギーの欠如がもたらした悲劇である。
父親の存在しない社会を想像してみよう。ここでいう父親とは生物学的な父親のことではなく、社会的な立場としての父親という意味だ。生物学的な父親とは子から見た両親の男性のほうをさす(こんな説明でいいだろうか)。では社会的な父親とはなにかというと、それは戸籍上の父親という意味である。社会的な父親の存在はその戸籍を根拠にしている。つまり世間一般の父親とは生物学的な側面と社会的な側面、その2つを同時に併せ持ったものだといえる。では戸籍上の父親が消滅したと仮定するとどうなるか。それは婚姻の消滅と同義であるといえる。
結婚という制度が消滅すると社会はどうなるだろう。まず弁護士の仕事がぐっと減るだろう。結婚がなければ離婚も存在しない。めんどうな仕事がなくなって助かる弁護士もいるだろうし、そっち専門にやっていて食扶持に困る弁護士もいるだろう。結婚相談所もなくなる。その他あらゆる結婚に関わるビジネスは消滅する。婚カツなんて言葉も死語になる。そろそろ結婚しなくちゃ、とプレッシャーを感じていた男性・女性はほっと安心する。
家庭内暴力もなくなり、セーフハウスにかけこむ女性もいなくなる。結婚が人間の精神を歪めている。男性から女性への暴力も、親から子供への暴力も、子供から親への暴力もそうだ。結婚がストレスとなっている。制度が圧力となって人間を追い詰めている。仕事に打ち込む女性もそうだ。俺には何かから逃避しているようにしか見えない。つまり家庭ではなく職場に自分の社会的存在価値を見出すこと、それが結婚という制度への反逆となっている。あるいは旧来の保守的な男女観への反逆ともいえるのだが、現代でそのような観念に縛られている人間はあまりいないので例外的だ。
もっと広い視点から考えてみよう。つまり男性と女性の関係がどう変化するかという視点からだ。
恋愛はどうなるだろう? 結婚がなくなると恋愛は存在しなくなるだろうか。明確に根拠を示せないけれど恋愛はなくならないと思う。よく結婚と恋愛は別物というけれど俺もそう考えていて、結婚がなくても恋愛は存在し得ると思う(しかしその逆はない。恋愛がないところに結婚は存在しない)。結婚と比べて恋愛はずっと気楽だ。束縛もあるがそれも一定の限度までなら逆に精神的な充足を与えてくれさえする。恋愛には求めがあり答えがある。つまりそれは親近感であったり、自己犠牲であったり、独占・所有であったりする。それらが入り混じったものだ。制度に縛られず、いつまでもそのようなものを求め続けられたらきっと人や社会は幸福になれる気がする。いい恋愛をしていれば誰も戦争をしようとは考えない。
そういった恋愛のメリットを考えると、一方で結婚という制度は男女の関係に負の影響を及ぼしている。つまり恋愛を制度化することはできないということだ。それを無理やり結婚という制度の枠にはめてしまうと、そこにあったはずの多くの感情が失われてしまうし、歪んでしまう。それは社会的な形にすべきではないのだ。
ではその結婚の消滅は具体的にどのような変化を我々にもたらすだろうか。まず男性は圧倒的に自由になるだろう。その呪縛から解放される。逆にいえば、結婚という制度は多くの面において男性に不利に働いているといえるだろう。本質的には結婚は男性の生物学的な本能を抑制するために働いている。つまり男性はついにその頸木から解き放たれることになる。結婚のない世界ってなんだか素敵じゃないかと思う方もいるかもしれないが、実はいいことばかりではない。結婚という制度が消滅すると困るのは不細工な男性たちだ。つまりいい女は手当たり次第に魅力的な男性に取られてしまう。不細工は恋愛もセックスもできないのである。悲惨だ。結婚という制度はそういった不細工だが有能な人間を救済するための措置だともいえる。不細工で無能なやつらは? そいつらはいつの世であってもどうしようもない(しかし世の中には常にアブノーマルな人たちがいる。その人たちからすれば自分たちがノーマルなのだけれど。だからそのような奇特な人たちがいる限り不細工にも救いはあるといえる)。
女性はどうだろう。まず社会的立場から考えると家に金を入れる人間がいなくなるので立場は弱くなる。だから女性には社会的補償が必要になる。子育てもある段階までは男性が金銭面や精神面でサポートしてくれるかもしれないが、結婚という制度が存在しない以上そこに義務はない。子育てをする女性には子供が成人するまでの補償が必要となる。仕事をする女性は確実に減るだろう。なぜなら稼ぐ必要がない。女性は子育てをするという名目で国から多額の補助を受けられるからだ。子供が増えれば増えるほどその補助額は大きくなる。少子化が止まるかもしれない。仕事は趣味的なものとなる。あるいは男性を探すための仮の肩書となる。
現代では女性はあたかも男性のように働いている。男性より有能な女性も多くいる。そのような貴重な労働源の喪失は社会にどのような影響を及ぼすのだろう。女性が労働をしなくなる訳ではない。子育ては立派な労働である。それに対して補償が充てられる。あるいは給与というべきかもしれない。しかし本質的な意味ではもはや女性は労働者ではなくなる。つまり生産活動を行わないという意味である。それは男性だけの特権になり、子育ては女性だけの役割となる。もちろんそんなにはっきりと棲み分けられる訳ではない。男性が子育てをしてはいけないという法律はないし、女性が勤労してはいけないという法律もない。しかし穏やかに緩やかにそのような役割分担が行われるのは確かだろう。
労働者でない者は何者なのか。それは消費者である。女性は純粋な消費者となる。すると社会は女性の消費のために動く。より女性の消費を喚起するような広告が打たれ、より女性の好みに合致した商品がつくられる。男性はどうなるかといえば、いまよりさらに馬車馬のように働くこととなる。いまの社会システムを維持するためには女性労働者の減少した分の労働力を補わなくてはならないからだ。すると男性の死亡率は増加し、平均余命は短くなる。過労死、事故死、精神的疲弊からの自殺、ストレス病、その他あらゆる病気、それらすべてのリスクが上昇するからだ。男性は擦り減った靴のように酷使され、捨てられる。もともと生物学的な確率から言えば男性のほうが女性より出生率は低い。現在の世界人口の割合でも男性のほうが少ない。その上にそのようなリスクが上乗せされると、世界人口比で男性の割合はだんだんと減少していくだろう。
なんだかずいぶんと悲惨な社会ではないか。するといろんな問題はあるけれども、結局のところ結婚という制度は男性を守っている面もあるのかもしれない。しかしいまの世間の男性の結婚生活もそれと負けず劣らず無惨なものだ。結局どう転んでも男性は憐れな存在なのかもしれない。働け、だけど浮気はするな。ずいぶんなことだ。尚且つ働いても文句を言われる。
俺は思うのだけれども、それらの全てをひっくるめて象徴しているのが、男性の乳首なのだ。すべての男性はその乳首に象徴され、その乳首はすべての男性を象徴している。誤った進化を辿り、時の澱みの狭間に取り残されてしまったシーラカンスのように。それはどう見ても時代遅れだ。進化の余地はない。退化するか消滅するしか道はないのである。哀しいかな。