おととい、ある人の「写経」に関するTwitterの記事に触発されて、じっさいにある文章の一部を写してみた。三日坊主になることは間違いないが、今日もちょっとある一節を写し書きしてみた。
「もちろん、研究者の当面の価値観は、当人の人生観である(これはとくに尚古的歴史学の場合)にとどまらず、何らかの社会的意味を帯びている場合(これはとくに反省的・発展的歴史学の場合)が多い。その場合、彼の個人的価値観とそれに基づく問題関心・問題設定が、何らかの既存のイデオロギーと大幅に重なり合う場合はたいへん多いであろう(前記の第二点)。その場合、研究という営為において最も大切なのは、比喩的に言えば、小異を捨てて大同につくのではなく、あくまでも「小異」にこだわることである。なぜなら、みずから思索を凝らすことは、すべてを疑うことにほかならず、その疑いの眼が自分の社会的価値観に重なるような既存のイデオロギーに対しても向けられるとき、そこには必ず「小異」が見出されるはずだからである。歴史学の作業工程が事実認識から歴史認識に進むとき、われわれが各種の歴史理論を参照するのは当然であり必須でもあるのだが、その際、どれかの理論をそのまま借用するのではなく、諸理論を批判的に摂取してみずから理論的に思考することが不可欠であるのも、ここに由来する(前記の第五点)。
こうして、研究者が、彼の研究の前提たる価値観を絶対視することなく、みずから思索し続け、既存のイデオロギーとの「小異」にこだわってそれとの距離を置くならば、彼は、自分の提示する命題なり歴史像なりが、現在のイデオロギー状況とは切り離された地点において、公の場で反証されるまでの間の暫定的・相対的な客観性を保証されているにすぎないことを自覚する。そうであれば、彼は、自己の構築した命題なり歴史像なりによって読者をどこかに誘導しようなどと考えるはずはない(前記の第四点)。つまり、歴史学の営みにおいては、読者をどこかに誘導するのではなく、ただ、読者を思索に誘う(多様な選択肢を提供する)ことこそが、歴史学の社会的責任の果たすゆえんなのである。」
遅塚忠躬、『史学概論』、東京大学出版会、2010(2011)年、454頁。
じつは、研究仲間と月に1度くらいのペースで読書会をしていて、そのテキストがこの本。あさって行う回で、すべて読み終わることになる。最後の部分の発表担当にあたっているので、レジメを作るついでに書き写してみた。
本書の全体が、内容はもちろんのこと、文章技法の面でもとても勉強になったのだが、このあいだ書いた「憧れと模倣」という文脈で言うと、自分にとっては、この文章は模倣の対象にはならない。勉強になるし尊敬もするのだが、なにかとても異質な感じがする。こういうことと言うのは、なぜ起きるのだろうか。
まあ、そうしたことはさておき、そろそろほんらいの仕事に戻ろう。
「もちろん、研究者の当面の価値観は、当人の人生観である(これはとくに尚古的歴史学の場合)にとどまらず、何らかの社会的意味を帯びている場合(これはとくに反省的・発展的歴史学の場合)が多い。その場合、彼の個人的価値観とそれに基づく問題関心・問題設定が、何らかの既存のイデオロギーと大幅に重なり合う場合はたいへん多いであろう(前記の第二点)。その場合、研究という営為において最も大切なのは、比喩的に言えば、小異を捨てて大同につくのではなく、あくまでも「小異」にこだわることである。なぜなら、みずから思索を凝らすことは、すべてを疑うことにほかならず、その疑いの眼が自分の社会的価値観に重なるような既存のイデオロギーに対しても向けられるとき、そこには必ず「小異」が見出されるはずだからである。歴史学の作業工程が事実認識から歴史認識に進むとき、われわれが各種の歴史理論を参照するのは当然であり必須でもあるのだが、その際、どれかの理論をそのまま借用するのではなく、諸理論を批判的に摂取してみずから理論的に思考することが不可欠であるのも、ここに由来する(前記の第五点)。
こうして、研究者が、彼の研究の前提たる価値観を絶対視することなく、みずから思索し続け、既存のイデオロギーとの「小異」にこだわってそれとの距離を置くならば、彼は、自分の提示する命題なり歴史像なりが、現在のイデオロギー状況とは切り離された地点において、公の場で反証されるまでの間の暫定的・相対的な客観性を保証されているにすぎないことを自覚する。そうであれば、彼は、自己の構築した命題なり歴史像なりによって読者をどこかに誘導しようなどと考えるはずはない(前記の第四点)。つまり、歴史学の営みにおいては、読者をどこかに誘導するのではなく、ただ、読者を思索に誘う(多様な選択肢を提供する)ことこそが、歴史学の社会的責任の果たすゆえんなのである。」
遅塚忠躬、『史学概論』、東京大学出版会、2010(2011)年、454頁。
じつは、研究仲間と月に1度くらいのペースで読書会をしていて、そのテキストがこの本。あさって行う回で、すべて読み終わることになる。最後の部分の発表担当にあたっているので、レジメを作るついでに書き写してみた。
本書の全体が、内容はもちろんのこと、文章技法の面でもとても勉強になったのだが、このあいだ書いた「憧れと模倣」という文脈で言うと、自分にとっては、この文章は模倣の対象にはならない。勉強になるし尊敬もするのだが、なにかとても異質な感じがする。こういうことと言うのは、なぜ起きるのだろうか。
まあ、そうしたことはさておき、そろそろほんらいの仕事に戻ろう。