――私は血に汚れることを恐れない。
何故ならば、私の行為は弱きを救う正義の元に成り立っているから。
…私は白き光。
闇を打ち払い、成敗する一振の剣。
たとえこの手を、この身を血に染めようとも、誰にも私の行為を罰せられない。
私には…………間違いなど許されない――
気が付くと、私はビルの屋上の端に立っていた。
そこからの眺めは実に良く、一歩踏み出せば自由な世界へ飛び立てると思えるほど美しく見えた。
そのビルの下では、たくさんの人たちが忙しなく、緩やかに交差するように歩いていた。
その俯瞰風景を、私は感情もなく眺めていた。
「……先生…」
その一言が、空っぽになっていた私の精神を深くえぐった気がした。
私のお腹には、小さな命が宿っている。
それはあまりにも軽率で、願われていたかどうかも分からない命。
相手は高校の担任教師だった。
…私は先生が大好きだった。
先生が優しく問いかけてくれたり、優しい眼差しで私を見つめてくれるのが嬉しくてたまらなかった。
私は先生の虜になっていた。
いけないと分かっていても、何度も先生と快感を交え合った。
それはあまりに甘く、何度でも欲してしまう心地良さ。
私の中に先生が入ってくる度に、私の理性は薄く遠くなっていく。
…あまりに幸せすぎて自分を見失うほどに。
だが、それが終わりを告げたのは突然だった。
ある日、私のお腹に赤ちゃんが出来てしまった。
もちろん私は先生との子なら大事に育てたいと思っていた。
だが先生はそれ以来、私と顔を合わせなくなった。
それどころか、今までの関係が嘘だったかのように、一切私と会話すらしなくなった。
…苦しかった。
学校に行けば、私の大好きな先生は毎日そこにいるのに。
悲しくても泣く事すら出来ない虚ろな意識は、自然と私をビルの屋上に誘った。
ビルの端に立つと、優しい風が私の体を吹き抜けていった。
『……ごめんね…』
お腹をさすりながら、生まれくるはずだった命に私は何度も謝った。
この子は何も悪くない。
ただ、生まれるべくして生まれてくるはずだったのに…。
「……………ごめんなさい……」
不意に口から出た言葉は、ようやく私の涙を流すきっかけとなった。
だが、今ではそんなのが役に立つはずなどなく……。
「……………」
後悔と懺悔の意志の元………私はビルの屋上から飛び降りた―――
目が覚めると、私は暗い路地裏に倒れていた。
『……ここは…………どこ……?』
見たことの無い路地裏に人の気配はなく、暗い闇だけが広がっていた。
前を見ても後ろを振り返っても、街並みの街灯さえ見当たらなかった。
『……私……ビルの上から飛び降りて……それから……』
その先の記憶はない。
それは当然であるが故に、私は混乱していた。
身体を見るも、傷は一切なかった。
お腹に触れると、少しばかり張っていたはずのお腹はすっきりと孕む前の細さになっていた。
『ここは…どこなの…?
ひょっとして……私は死んだの?』
そう思いながら歩くも、景色の変わらぬ路地裏は気味が悪く感じることしかなかった。
だが、その惚けぶりは直ぐに断ち切られた。
「……っ!!?」
目の先に、不吉さしか感じさせない野生の眼が光っていた。
野犬か何かと思ったが、私の予想は遥かに大きく裏切られた。
『……あの野犬………骨が出てる……!!?』
目の先の生き物………いや、化け物と呼ばれるであろう存在は薄汚く汚れ、鋭い牙の間から唾液を垂らし、治療不可能と言いきれるほど骨が露出していた。
『何なの……身体が……動かない…!!』
あまりの恐怖に、私の脚は震え酷く強ばっていた。
グッと力を込めようすると、私は思わずへたりこんでしまった。
「グルルル……」
化け物は1匹ではなく、少なくとも3匹はいた。
「嫌だ……。
助けて………先生…」
そう口にするも、先生が来てくれるはずなどなく、化け物たちはジリジリと私に近付いてきた。
「嫌だ……来ないで…!!」
もちろん化け物に言葉など通じるはずもなかった。
「グルル……ガウウゥ…!!!」
唸り声を上げて、1匹の化け物が私に飛びかかった。
『っ……先生…!!!』
強く目蓋を瞑り身を屈めた……その時だった。
『ドゴンッ!』
鈍く重い衝撃音が響き、私に襲いかかるはずだった化け物の気配が無くなっていた。
ゆっくり目を見開くと、目の前に白いドレスに身を包んだ女性が立っていた。
「…大丈夫ですか?」
ちらっとこちらに視線を向けた女性の眼差しは鋭く、安心感をくれるたくましさがあった。
「あっ………ありがとう……ござい…ます…」
女性がこちらに振り返ると、私に手を差し伸べてきた。
「立てますか?
奴らはまだ来ます。
どうか、貴女だけでも逃げてください」
「…逃げるって………貴女は…」
「私は大丈夫です。
今奴らと戦えるのは、私だけですから」
その手には、華奢なその姿に似つかわしくないほど大きな大槌が握られていた。
『あんなに大きなので……。
…それに、この人は一体…』
そう考えてる間に私は立たされ、服に着いた汚れを払ってくれた。
「貴女は……一体…。
それに、あの化け物たちはなんなの…?」
化け物に背を向けながらも、背後を警戒しながら女性は説明してくれた。
「……奴らは「ナイトメア」。
「この世界」に存在し、私たちに襲いかかる………ただの化け物です」
「ナイト……メア…」
初めて聞いたはずなのに、その言葉は不思議と私の耳に馴染んだ。
「そして、私は……」
私に背を向け、女性は唐突に走り出した。
「……「正義」ですっ!!!」
漆黒の闇の中から化け物……ナイトメアたちが女性に襲いかかるも、女性は正確にナイトメアの攻撃をかわし、その腹部に一撃を食らわせていた。
「…すごい……」
闇の中で白く舞う羽根のように戦うその姿に、私はしばし見とれていた。
「……何をしているのです!
早く逃げなさいっ!!」
「……っ!
わ、分かった………っ!?」
後ろを振り返ると、2匹のナイトメアが私に牙をむいていた。
「っ…!
こんな時に…!!」
私の状況に気付くも、女性の方にも野犬のナイトメアが蔓延っていた。
『どうしよう……。
私も戦えれば………っ!』
偶然、足元にあった鉛管を拾い、私はナイトメアに向けて構えた。
「…来なさい化け物!
私だって……戦えるんだから…!!」
言葉とは裏腹に脚は絶えず震えている。
それでも私は2匹のナイトメアに突っ込んだ。
「…っ、やめろ!
そんな鉛管ごときで倒せる奴らではない!」
女性の言った通り、ナイトメアはひらりと私の鉛管をかわし、私は地面に叩きつけた衝撃で手が痺れてしまった。
「っ……!」
その隙を狙って、1匹のナイトメアが襲いかかって来た。
「っ…!?」
鋭い牙が立ち並ぶ口に鉛管で抑えるも、私はマウントを取られ、絶体絶命に陥っていた。
「いやっ……来ないで…!!」
私の気持ちなど知る由もないナイトメアは、凄まじい力で私の鉛管を押し返していた。
「くそっ………邪魔だ…!!」
うっすらと目を向けると、女性は四方をナイトメアに囲まれていた。
「くっ……うぅぅぅぅ…!!!」
今出しきれる力で私は必死に抵抗した。
だが、普通の女子高生に化け物に抗い勝てる力などあるはずがない。
『…お願い……。
…誰か……助けて……!!!!』
死に物狂いで私は助けを求めた。
その時だった。
『…どうヤラ、絶体絶命のピンチみたいデスネ』
「…っ!?
今の声は誰……!?」
ナイトメアとの鍔迫り合いの矢先、機械音とも合成音声とも言い難い声が、私の頭の中に響いた。
『クククッ…。
これでは2人とも死んじゃいますネ。
まさニ絶望的!』
私たちの状況を嘲笑うように2種類の声が響く。
「………お願い…。
私たちを助けて…!」
腕の感覚が薄れてきた状態で私は腹から声を出すと、奇怪な声は間を空けて再び聞こえてきた。
『おやオヤ、そんなに生きたいのデスか?』
『そんなに苦シムことを求めるのですカ?』
まるで水を欲しがる魚のような私を、2種類の声は愉快と言わんばかりに嘲る。
「私は………死にたくないっ…!!!」
その時、私の身体が光り輝きだした。
「なっ……何……!?」
光が強くなると、マウントを取っていたナイトメアは吹き飛ばされ、私は無機質な輝きを放つ光に包まれていった。
『それでハ、貴方に殺ス為の武器をプレゼントしまショウ』
『それならバ、ナイトメアを殺ス事など容易くなりマス』
「………っ!」
無機質な光は全身を覆い、全てを変貌させた。
「…っ!
あれは………!!」
光が収束し、私は己の格好に目を向けた。
学校の制服を着ていたはずの私は、見たことも無いコスプレ衣装の様なドレスを着ていた。
「…これは………一体……」
何となく、小さい頃に読んだことのあるおとぎ話に出てくるキャラクター……名前は忘れたが、そのイメージにも似つかわしい衣装を私は着ていた。
『おめでとうございマス。
コレで貴方もナイトメアと戦う力を手ニ入れマシタ。
もう、逃げるコトは出来ませんヨ』
『最も「ココニイル」時点で、逃ゲル事など出来マセンけどネ』
…不思議だ。
先程までの恐怖心は一切なくなり、私はひどく落ち着いていた。
『さァ、その武器でナイトメアを殺シまくってクダサイ。
コレカラが始マリですヨ』
『イーヒヒヒッ!』
『アーハハハッ!』
最後に嘲笑が消えると、吹き飛ばされたナイトメアが体制を立て直して再び敵意を向けてきた。
おもむろに見た私の右手には、大きな一振の剣が握られていた。
軽く振りかざしてみるも、先程振り回した鉛管よりも重さを感じにくく、私に自信を与えてくれた。
『これなら……倒せる…!』
両手で剣を握り、ナイトメアに構える。
睨み合いの末、ナイトメアが先手を取るように襲いかかって来た。
『……見えるっ!』
風のごときナイトメアのスピードを完全に見切り、私は助けてくれた女性と同じようにひらりとかわした。
ナイトメアは身を翻して再び飛びかかる。
「っ……」
動きをよく観察し、私は飛びかかるナイトメアの下に突っ込み、その勢いで刀を立てながらすれ違う形で斬り抜けた。
『……ドサッ…』
初めて獣の腹を切り裂いた。
なのに、私の心臓は至って平均的だった。
腹部を切り裂かれたナイトメアは、そのまま沈黙した。
「………」
切り殺された仲間を見てか、女性を取り囲んでいた4匹のナイトメアが一斉に私に襲いかかって来るも、私は1匹、1匹の動きを読み、確実に致命傷を与えた。
断末魔さえ上げる間もなく、ナイトメアは2度と動くことは無かった。
「……ふぅ…」
おもむろに刀に付いた血を振り払うと、後ろから女性が近寄ってきた。
「貴女………まさか私と同じ……」
彼女は動揺していたが、まるで人が変わったかのように私は受け答えた。
「…頭の中で声が聞こえたの。
生きたければ、戦えと…」
その一言に女性は目線を下げ、どこか落胆していた。
「でも……助けてくれたことは感謝します。
……名前、聞いてもいい?」
私の問いかけに、女性はハッと顔を上げ、咳払いをした。
「……私はスノウ。
…「スノウ・ホワイト」だ」
ニコッと笑みを浮かべ、スノウは握手を求めてきた。
それを見て、私は表情もなく知りもしなかった己の名前を伝えた。
「………「アリス」よ。
…貴女とは……戦わなくていいのよね…?」
握手を交わし、少しだけ嫌味混じりに言うと、スノウはバカ言えと言わんばかりに笑った。
「…当たり前だ。
出来ることなら、私に協力してくれないか?
宛はないのだろう?」
「宛………」
宛も何も、私は生きたいと願っただけだ。
とっくに死んでるのかもしれないのに。
「私は、貴女の様な弱き者を救いたい。
これから先、貴女のように訳も分からずこの世界に来て、どうしようも無く苦しむ人を助けたいのだ」
「……この世界…?」
さっきも聞いた気がした。
そもそもここは何なのか…。
「ここは………「ライブラリ」と呼ばれる世界。
……私たちは、このライブラリで戦わねばならないのだ」
「…なんの為に……?」
いつの間にか離されていた手を見つめ、スノウは目付きを鋭くした。
「……「作者」を……復活させる為だ」
「……作…者……」
何故かその響きは心地よかった。
まるで己が知らずとも、身体は最初から分かっていたかのように…。
「私の願いは、このライブラリに存在する力なき者を救い、作者である「ヤーコプ・グリム」を復活させることだ」
「ヤーコプ……グリム…」
聞いたことは無いが、作者だと言えば納得出来る。
「でも……何で作者の復活なんて……」
『ソレに関してハ、私たちカラ説明しましょう』
「…っ!?」
背後から聞こえてきた奇怪な声に振り返ると、そこに2体の不気味な人形がぶら下がっていた。
「……貴方たちなの?
私に「これ」をくれたのは」
「ソウです。
あなたはここに来ル運命ダッタのデス。
これは偶然などではありまセン!」
「遅カレ早かれ、戦わねば殺サレルだけです。
ナイトメアのエサになって、惨めな死に様で終ワルだけデス!」
2体の人形は意志を持っているらしく、自らの意思でケタケタと笑っていた。
「改めてヨウこそ。
ライブラリの世界へ」
「ココでは、先程の様なナイトメアたちを始末してもらいマス」
「ユクユクは、貴方も必要トナル作者ノ復活も目的トナッテキマス。
この世界ニ来たばかりの貴方には、マダ早い事カモですがネ」
「…作者を復活させると、どうなるの?」
私の質問に、人形たちは声を揃えて嗤う。
「単純な事デス」
「明快すぎる事デス」
「痛快なのデス」
結論に至らない事に少し腹を立て、剣を向けようとした時、スノウが止めに入った。
「待て。
私から説明すると………願いが叶えられるのだ」
「…願い?」
スノウを見つめる後ろから、再び奇怪な声が聞こえてきた。
「ソノ通りデス。
作者ヲ復活させるダケで、貴方ガタの願いが叶えられマス」
「……そんな事…。
……どうすれば出来るの?」
その質問に、人形たちは嘲りながら言った。
「この世界ニ存在するナイトメアの殲滅ト、他のキャラクターたちを殺ス事デス」
「…っ!!」
私は思わずスノウに振り返ると、彼女は部が悪そうに目を逸らしていた。
「っ……」
思わず握っていた剣に力が入るも、私はすぐに脱力した。
『…そんな事……出来るはずがない。
スノウは……私を助けてくれたんだから…』
そう思っていると、スノウは私に目を向けて語りだした。
「ナイトメアの殲滅は良しとしても、他の人間を殺すのは反対だ。
何か方法はあるはずだ」
スノウの言葉に私は少しだけ安心した。
「さァ、ソレはどうでしょう。
それコソが、この世界のルールですからネ」
「やらなければ、いつマデたッても変わりませんヨ」
「…黙れっ!
私は私のやり方で作者を復活させる。
お前らの言いなりになどなるものか!!」
スノウは人形たちに反論するも、無駄な努力だと人形たちは笑っていた。
「ねぇ、他にも何人かいるの?
それと、何人殺せばいいの?」
「っ…!?
アリス……!」
動揺したスノウが私に警戒心を抱くも、もちろん本気ではない。
「聞きたいだけよ。
……で、どうなの?
他に何人いるの?」
私の質問に、人形たちは素直に答えた。
「他のキャラクターの正確ナ人数は分かりませン。
貴方ノ様に突然来る人間モいますからネ」
「そんな………」
そう言うも、心のどこかで私は決意していた。
「最後に生キ残ッた者が勝ちデス」
「いつソウナルかは分かりませんケドネ」
そう言って人形たちは口元に手を当てながら笑った。
「……分かった。
…貴方たちの名前は?」
「…ソウデシタ、紹介が遅レマシタネ。
…私はアナタたちの案内役となる「ギシン」デス」
「私が「アンキ」デス」
女物の人形と男物の人形……ギシンとアンキの名を知り、私はその場を去った。
「待ちなさい!
どこへ行くつもりだ!?」
スノウが私の肩に掴みかかるも、私はそっとその手を離した。
「…ナイトメアを殺せばいいんでしょ?
大丈夫、スノウは命の恩人だから殺さないわ。
…私も、私のやり方で作者を復活させてみせる」
その一言に、スノウはほっと胸をなでおろしていた。
「まァ、せいぜい頑張ッテください。
いずれ、他のキャラクターとも出会ウ事にナルデショウシね」
「その時ハ、敵カ味方か楽シミですネ」
そして不愉快な笑い声を残し、2体はスっと消えた。
「……スノウ…」
「っ…!」
突然の呼びかけにスノウは少し身震いをしていた。
「……私は私のやり方で作者を復活させる。
たとえこの手が血に染まることになるとしても……私は私のやり方で作者を復活させる。
もちろん、貴女と協力してね」
優しい笑顔で私が握手を求めると、豆鉄砲を食らったような顔になっていたスノウは安心した様子で握り返してくれた。
「…ありがとう。
2人で弱者を助け、互いの作者を復活させられる方法を見つけよう」
「そうね。
貴女には、助けられた借りもあるしね」
「よせ。
私は己の正義の為にやっただけだ」
握り交した手を離すと、後ろから何かが蒸発するような音が聞こえた。
振り返ると、切り捨てたナイトメアの残骸がチリとなって消えていった。
「…行こう、アリス」
「えぇ、スノウ」
そして私は元の名を忘れ……「アリス」という名前で、私の物語の作者である「ルイス・キャロル」を復活させる為、スノウと共に旅に出ることにした。
『………先生……。
…出来ることなら……もう一度………』
ささやかな願いを胸に、私は暗い路地裏をスノウと共に歩いていった。
何故ならば、私の行為は弱きを救う正義の元に成り立っているから。
…私は白き光。
闇を打ち払い、成敗する一振の剣。
たとえこの手を、この身を血に染めようとも、誰にも私の行為を罰せられない。
私には…………間違いなど許されない――
気が付くと、私はビルの屋上の端に立っていた。
そこからの眺めは実に良く、一歩踏み出せば自由な世界へ飛び立てると思えるほど美しく見えた。
そのビルの下では、たくさんの人たちが忙しなく、緩やかに交差するように歩いていた。
その俯瞰風景を、私は感情もなく眺めていた。
「……先生…」
その一言が、空っぽになっていた私の精神を深くえぐった気がした。
私のお腹には、小さな命が宿っている。
それはあまりにも軽率で、願われていたかどうかも分からない命。
相手は高校の担任教師だった。
…私は先生が大好きだった。
先生が優しく問いかけてくれたり、優しい眼差しで私を見つめてくれるのが嬉しくてたまらなかった。
私は先生の虜になっていた。
いけないと分かっていても、何度も先生と快感を交え合った。
それはあまりに甘く、何度でも欲してしまう心地良さ。
私の中に先生が入ってくる度に、私の理性は薄く遠くなっていく。
…あまりに幸せすぎて自分を見失うほどに。
だが、それが終わりを告げたのは突然だった。
ある日、私のお腹に赤ちゃんが出来てしまった。
もちろん私は先生との子なら大事に育てたいと思っていた。
だが先生はそれ以来、私と顔を合わせなくなった。
それどころか、今までの関係が嘘だったかのように、一切私と会話すらしなくなった。
…苦しかった。
学校に行けば、私の大好きな先生は毎日そこにいるのに。
悲しくても泣く事すら出来ない虚ろな意識は、自然と私をビルの屋上に誘った。
ビルの端に立つと、優しい風が私の体を吹き抜けていった。
『……ごめんね…』
お腹をさすりながら、生まれくるはずだった命に私は何度も謝った。
この子は何も悪くない。
ただ、生まれるべくして生まれてくるはずだったのに…。
「……………ごめんなさい……」
不意に口から出た言葉は、ようやく私の涙を流すきっかけとなった。
だが、今ではそんなのが役に立つはずなどなく……。
「……………」
後悔と懺悔の意志の元………私はビルの屋上から飛び降りた―――
目が覚めると、私は暗い路地裏に倒れていた。
『……ここは…………どこ……?』
見たことの無い路地裏に人の気配はなく、暗い闇だけが広がっていた。
前を見ても後ろを振り返っても、街並みの街灯さえ見当たらなかった。
『……私……ビルの上から飛び降りて……それから……』
その先の記憶はない。
それは当然であるが故に、私は混乱していた。
身体を見るも、傷は一切なかった。
お腹に触れると、少しばかり張っていたはずのお腹はすっきりと孕む前の細さになっていた。
『ここは…どこなの…?
ひょっとして……私は死んだの?』
そう思いながら歩くも、景色の変わらぬ路地裏は気味が悪く感じることしかなかった。
だが、その惚けぶりは直ぐに断ち切られた。
「……っ!!?」
目の先に、不吉さしか感じさせない野生の眼が光っていた。
野犬か何かと思ったが、私の予想は遥かに大きく裏切られた。
『……あの野犬………骨が出てる……!!?』
目の先の生き物………いや、化け物と呼ばれるであろう存在は薄汚く汚れ、鋭い牙の間から唾液を垂らし、治療不可能と言いきれるほど骨が露出していた。
『何なの……身体が……動かない…!!』
あまりの恐怖に、私の脚は震え酷く強ばっていた。
グッと力を込めようすると、私は思わずへたりこんでしまった。
「グルルル……」
化け物は1匹ではなく、少なくとも3匹はいた。
「嫌だ……。
助けて………先生…」
そう口にするも、先生が来てくれるはずなどなく、化け物たちはジリジリと私に近付いてきた。
「嫌だ……来ないで…!!」
もちろん化け物に言葉など通じるはずもなかった。
「グルル……ガウウゥ…!!!」
唸り声を上げて、1匹の化け物が私に飛びかかった。
『っ……先生…!!!』
強く目蓋を瞑り身を屈めた……その時だった。
『ドゴンッ!』
鈍く重い衝撃音が響き、私に襲いかかるはずだった化け物の気配が無くなっていた。
ゆっくり目を見開くと、目の前に白いドレスに身を包んだ女性が立っていた。
「…大丈夫ですか?」
ちらっとこちらに視線を向けた女性の眼差しは鋭く、安心感をくれるたくましさがあった。
「あっ………ありがとう……ござい…ます…」
女性がこちらに振り返ると、私に手を差し伸べてきた。
「立てますか?
奴らはまだ来ます。
どうか、貴女だけでも逃げてください」
「…逃げるって………貴女は…」
「私は大丈夫です。
今奴らと戦えるのは、私だけですから」
その手には、華奢なその姿に似つかわしくないほど大きな大槌が握られていた。
『あんなに大きなので……。
…それに、この人は一体…』
そう考えてる間に私は立たされ、服に着いた汚れを払ってくれた。
「貴女は……一体…。
それに、あの化け物たちはなんなの…?」
化け物に背を向けながらも、背後を警戒しながら女性は説明してくれた。
「……奴らは「ナイトメア」。
「この世界」に存在し、私たちに襲いかかる………ただの化け物です」
「ナイト……メア…」
初めて聞いたはずなのに、その言葉は不思議と私の耳に馴染んだ。
「そして、私は……」
私に背を向け、女性は唐突に走り出した。
「……「正義」ですっ!!!」
漆黒の闇の中から化け物……ナイトメアたちが女性に襲いかかるも、女性は正確にナイトメアの攻撃をかわし、その腹部に一撃を食らわせていた。
「…すごい……」
闇の中で白く舞う羽根のように戦うその姿に、私はしばし見とれていた。
「……何をしているのです!
早く逃げなさいっ!!」
「……っ!
わ、分かった………っ!?」
後ろを振り返ると、2匹のナイトメアが私に牙をむいていた。
「っ…!
こんな時に…!!」
私の状況に気付くも、女性の方にも野犬のナイトメアが蔓延っていた。
『どうしよう……。
私も戦えれば………っ!』
偶然、足元にあった鉛管を拾い、私はナイトメアに向けて構えた。
「…来なさい化け物!
私だって……戦えるんだから…!!」
言葉とは裏腹に脚は絶えず震えている。
それでも私は2匹のナイトメアに突っ込んだ。
「…っ、やめろ!
そんな鉛管ごときで倒せる奴らではない!」
女性の言った通り、ナイトメアはひらりと私の鉛管をかわし、私は地面に叩きつけた衝撃で手が痺れてしまった。
「っ……!」
その隙を狙って、1匹のナイトメアが襲いかかって来た。
「っ…!?」
鋭い牙が立ち並ぶ口に鉛管で抑えるも、私はマウントを取られ、絶体絶命に陥っていた。
「いやっ……来ないで…!!」
私の気持ちなど知る由もないナイトメアは、凄まじい力で私の鉛管を押し返していた。
「くそっ………邪魔だ…!!」
うっすらと目を向けると、女性は四方をナイトメアに囲まれていた。
「くっ……うぅぅぅぅ…!!!」
今出しきれる力で私は必死に抵抗した。
だが、普通の女子高生に化け物に抗い勝てる力などあるはずがない。
『…お願い……。
…誰か……助けて……!!!!』
死に物狂いで私は助けを求めた。
その時だった。
『…どうヤラ、絶体絶命のピンチみたいデスネ』
「…っ!?
今の声は誰……!?」
ナイトメアとの鍔迫り合いの矢先、機械音とも合成音声とも言い難い声が、私の頭の中に響いた。
『クククッ…。
これでは2人とも死んじゃいますネ。
まさニ絶望的!』
私たちの状況を嘲笑うように2種類の声が響く。
「………お願い…。
私たちを助けて…!」
腕の感覚が薄れてきた状態で私は腹から声を出すと、奇怪な声は間を空けて再び聞こえてきた。
『おやオヤ、そんなに生きたいのデスか?』
『そんなに苦シムことを求めるのですカ?』
まるで水を欲しがる魚のような私を、2種類の声は愉快と言わんばかりに嘲る。
「私は………死にたくないっ…!!!」
その時、私の身体が光り輝きだした。
「なっ……何……!?」
光が強くなると、マウントを取っていたナイトメアは吹き飛ばされ、私は無機質な輝きを放つ光に包まれていった。
『それでハ、貴方に殺ス為の武器をプレゼントしまショウ』
『それならバ、ナイトメアを殺ス事など容易くなりマス』
「………っ!」
無機質な光は全身を覆い、全てを変貌させた。
「…っ!
あれは………!!」
光が収束し、私は己の格好に目を向けた。
学校の制服を着ていたはずの私は、見たことも無いコスプレ衣装の様なドレスを着ていた。
「…これは………一体……」
何となく、小さい頃に読んだことのあるおとぎ話に出てくるキャラクター……名前は忘れたが、そのイメージにも似つかわしい衣装を私は着ていた。
『おめでとうございマス。
コレで貴方もナイトメアと戦う力を手ニ入れマシタ。
もう、逃げるコトは出来ませんヨ』
『最も「ココニイル」時点で、逃ゲル事など出来マセンけどネ』
…不思議だ。
先程までの恐怖心は一切なくなり、私はひどく落ち着いていた。
『さァ、その武器でナイトメアを殺シまくってクダサイ。
コレカラが始マリですヨ』
『イーヒヒヒッ!』
『アーハハハッ!』
最後に嘲笑が消えると、吹き飛ばされたナイトメアが体制を立て直して再び敵意を向けてきた。
おもむろに見た私の右手には、大きな一振の剣が握られていた。
軽く振りかざしてみるも、先程振り回した鉛管よりも重さを感じにくく、私に自信を与えてくれた。
『これなら……倒せる…!』
両手で剣を握り、ナイトメアに構える。
睨み合いの末、ナイトメアが先手を取るように襲いかかって来た。
『……見えるっ!』
風のごときナイトメアのスピードを完全に見切り、私は助けてくれた女性と同じようにひらりとかわした。
ナイトメアは身を翻して再び飛びかかる。
「っ……」
動きをよく観察し、私は飛びかかるナイトメアの下に突っ込み、その勢いで刀を立てながらすれ違う形で斬り抜けた。
『……ドサッ…』
初めて獣の腹を切り裂いた。
なのに、私の心臓は至って平均的だった。
腹部を切り裂かれたナイトメアは、そのまま沈黙した。
「………」
切り殺された仲間を見てか、女性を取り囲んでいた4匹のナイトメアが一斉に私に襲いかかって来るも、私は1匹、1匹の動きを読み、確実に致命傷を与えた。
断末魔さえ上げる間もなく、ナイトメアは2度と動くことは無かった。
「……ふぅ…」
おもむろに刀に付いた血を振り払うと、後ろから女性が近寄ってきた。
「貴女………まさか私と同じ……」
彼女は動揺していたが、まるで人が変わったかのように私は受け答えた。
「…頭の中で声が聞こえたの。
生きたければ、戦えと…」
その一言に女性は目線を下げ、どこか落胆していた。
「でも……助けてくれたことは感謝します。
……名前、聞いてもいい?」
私の問いかけに、女性はハッと顔を上げ、咳払いをした。
「……私はスノウ。
…「スノウ・ホワイト」だ」
ニコッと笑みを浮かべ、スノウは握手を求めてきた。
それを見て、私は表情もなく知りもしなかった己の名前を伝えた。
「………「アリス」よ。
…貴女とは……戦わなくていいのよね…?」
握手を交わし、少しだけ嫌味混じりに言うと、スノウはバカ言えと言わんばかりに笑った。
「…当たり前だ。
出来ることなら、私に協力してくれないか?
宛はないのだろう?」
「宛………」
宛も何も、私は生きたいと願っただけだ。
とっくに死んでるのかもしれないのに。
「私は、貴女の様な弱き者を救いたい。
これから先、貴女のように訳も分からずこの世界に来て、どうしようも無く苦しむ人を助けたいのだ」
「……この世界…?」
さっきも聞いた気がした。
そもそもここは何なのか…。
「ここは………「ライブラリ」と呼ばれる世界。
……私たちは、このライブラリで戦わねばならないのだ」
「…なんの為に……?」
いつの間にか離されていた手を見つめ、スノウは目付きを鋭くした。
「……「作者」を……復活させる為だ」
「……作…者……」
何故かその響きは心地よかった。
まるで己が知らずとも、身体は最初から分かっていたかのように…。
「私の願いは、このライブラリに存在する力なき者を救い、作者である「ヤーコプ・グリム」を復活させることだ」
「ヤーコプ……グリム…」
聞いたことは無いが、作者だと言えば納得出来る。
「でも……何で作者の復活なんて……」
『ソレに関してハ、私たちカラ説明しましょう』
「…っ!?」
背後から聞こえてきた奇怪な声に振り返ると、そこに2体の不気味な人形がぶら下がっていた。
「……貴方たちなの?
私に「これ」をくれたのは」
「ソウです。
あなたはここに来ル運命ダッタのデス。
これは偶然などではありまセン!」
「遅カレ早かれ、戦わねば殺サレルだけです。
ナイトメアのエサになって、惨めな死に様で終ワルだけデス!」
2体の人形は意志を持っているらしく、自らの意思でケタケタと笑っていた。
「改めてヨウこそ。
ライブラリの世界へ」
「ココでは、先程の様なナイトメアたちを始末してもらいマス」
「ユクユクは、貴方も必要トナル作者ノ復活も目的トナッテキマス。
この世界ニ来たばかりの貴方には、マダ早い事カモですがネ」
「…作者を復活させると、どうなるの?」
私の質問に、人形たちは声を揃えて嗤う。
「単純な事デス」
「明快すぎる事デス」
「痛快なのデス」
結論に至らない事に少し腹を立て、剣を向けようとした時、スノウが止めに入った。
「待て。
私から説明すると………願いが叶えられるのだ」
「…願い?」
スノウを見つめる後ろから、再び奇怪な声が聞こえてきた。
「ソノ通りデス。
作者ヲ復活させるダケで、貴方ガタの願いが叶えられマス」
「……そんな事…。
……どうすれば出来るの?」
その質問に、人形たちは嘲りながら言った。
「この世界ニ存在するナイトメアの殲滅ト、他のキャラクターたちを殺ス事デス」
「…っ!!」
私は思わずスノウに振り返ると、彼女は部が悪そうに目を逸らしていた。
「っ……」
思わず握っていた剣に力が入るも、私はすぐに脱力した。
『…そんな事……出来るはずがない。
スノウは……私を助けてくれたんだから…』
そう思っていると、スノウは私に目を向けて語りだした。
「ナイトメアの殲滅は良しとしても、他の人間を殺すのは反対だ。
何か方法はあるはずだ」
スノウの言葉に私は少しだけ安心した。
「さァ、ソレはどうでしょう。
それコソが、この世界のルールですからネ」
「やらなければ、いつマデたッても変わりませんヨ」
「…黙れっ!
私は私のやり方で作者を復活させる。
お前らの言いなりになどなるものか!!」
スノウは人形たちに反論するも、無駄な努力だと人形たちは笑っていた。
「ねぇ、他にも何人かいるの?
それと、何人殺せばいいの?」
「っ…!?
アリス……!」
動揺したスノウが私に警戒心を抱くも、もちろん本気ではない。
「聞きたいだけよ。
……で、どうなの?
他に何人いるの?」
私の質問に、人形たちは素直に答えた。
「他のキャラクターの正確ナ人数は分かりませン。
貴方ノ様に突然来る人間モいますからネ」
「そんな………」
そう言うも、心のどこかで私は決意していた。
「最後に生キ残ッた者が勝ちデス」
「いつソウナルかは分かりませんケドネ」
そう言って人形たちは口元に手を当てながら笑った。
「……分かった。
…貴方たちの名前は?」
「…ソウデシタ、紹介が遅レマシタネ。
…私はアナタたちの案内役となる「ギシン」デス」
「私が「アンキ」デス」
女物の人形と男物の人形……ギシンとアンキの名を知り、私はその場を去った。
「待ちなさい!
どこへ行くつもりだ!?」
スノウが私の肩に掴みかかるも、私はそっとその手を離した。
「…ナイトメアを殺せばいいんでしょ?
大丈夫、スノウは命の恩人だから殺さないわ。
…私も、私のやり方で作者を復活させてみせる」
その一言に、スノウはほっと胸をなでおろしていた。
「まァ、せいぜい頑張ッテください。
いずれ、他のキャラクターとも出会ウ事にナルデショウシね」
「その時ハ、敵カ味方か楽シミですネ」
そして不愉快な笑い声を残し、2体はスっと消えた。
「……スノウ…」
「っ…!」
突然の呼びかけにスノウは少し身震いをしていた。
「……私は私のやり方で作者を復活させる。
たとえこの手が血に染まることになるとしても……私は私のやり方で作者を復活させる。
もちろん、貴女と協力してね」
優しい笑顔で私が握手を求めると、豆鉄砲を食らったような顔になっていたスノウは安心した様子で握り返してくれた。
「…ありがとう。
2人で弱者を助け、互いの作者を復活させられる方法を見つけよう」
「そうね。
貴女には、助けられた借りもあるしね」
「よせ。
私は己の正義の為にやっただけだ」
握り交した手を離すと、後ろから何かが蒸発するような音が聞こえた。
振り返ると、切り捨てたナイトメアの残骸がチリとなって消えていった。
「…行こう、アリス」
「えぇ、スノウ」
そして私は元の名を忘れ……「アリス」という名前で、私の物語の作者である「ルイス・キャロル」を復活させる為、スノウと共に旅に出ることにした。
『………先生……。
…出来ることなら……もう一度………』
ささやかな願いを胸に、私は暗い路地裏をスノウと共に歩いていった。