光の速さ、重力の強さ、電子の電荷などの物理定数は、固定された根源の値ではなく、宇宙が誕生した際その過程でたまたま決まった値である。本来それは流動的で不安定。重力が僅かに強ければ、宇宙は誕生後に潰れていたし、反対に弱ければ、星や銀河は形成されなかった。

"この我々"の宇宙の物理定数が、たまたまその値だったから炭素や窒素、酸素など"周期表"が存在でき、生命誕生にも繋がった。

なぜ、我々がいる宇宙は、このたまたまの偶然の奇跡の"ファイン・チューニング"を手に入れたのか?

これについて、神という、都合の良い思考停止状態を退けて組み立てられた仮説が、マルチバース・多元宇宙論。それは、我々と同じ"周期表"を手に入れられなかったハズレ宇宙が無数にあり、宇宙のほとんどが生命を宿さない死んだ空間であることを示してもいる。

圧倒的な"ない"を背景にして、ぼくらは、なにもないのではなく、何かがある宇宙に存在している。(マルチバースのなかのユニバース)

このことは、さきの記事の古東哲明が強く訴える、存在驚愕・タウマゼインの強力な補助線にならないだろうか。

そんなわけで神社の護符ふうに、ぼくは上の写真の文言を考えたのでした。多元宇宙論(マルチバース)とタウマゼイン(存在驚愕)をミックスして、"神ながらの道"の真言としての 

       【多宇真是因】


あたりまえの目のまえの風景が、奇跡の結晶体にみえてきて、そして宇宙論的な偶然(たまたま)は、「存在しているだけで、すでに間に合っている」という究極の肯定感へぼくらを導いてくれる。

理由や意味がないことは、見捨てられているのではなくて、"ただ、存在して良い"という究極の許可。根源的な安心、幸福。  そうして、

「一回きりの私」という聖域をいかに大切にするか、、。

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YouTubeで、野村泰紀、マルチバースあたりの文言で検索すると、先生のマルチバース理論の熱くおもしろい話が視聴できます。【宇宙は無数に存在する】というタイトルのPIVOTの番組(220万回視聴)など。