芸能人であれ無名の主婦であれ

兎に角、隙あらばここぞとばかりに叩きのめす

いや、隙がなくとも叩きのめす


一体いつからそんな世の中に

なってしまったのだろう

自分こそ尊敬されるべき存在であるかのように

ああだこうだと


◯ャ◯ーズ事件はマスコミ界や芸能界、あらゆるエンターテイメントに関わる業界にとって

前代未聞の事件であることは

重々承知している


だが夢を売る商売のこんな実態を

長々と長期に渡ってあれこれ醜聞を晒すことで

当事者以外が聞くに見るに耐えられぬ情報に

触れることを強いられて、

テレビを消して耐えていることに

エンターテイメントに携わる人々は気づいていない


あとは当事者同士が裏で静かに解決して欲しい

まるで解決への過程さえ

売り物にしているかのようで

不快で不快で

あれ以来、ずっとテレビを消している

昔はニュース番組はニュースを伝えるという役割を担っていた。

いつの頃からか「解説者」なる肩書きの人(アナウンサーの場合もある)が、当初は難しい言葉や言い回しの記事を噛み砕いて、説明する程度だったが。

段々と自分の経験談や感情や思想を組み込んで、脱線してゆくような「解説になっていない、不平不満」を早朝からハイトーンで「わーわーまくし立てる」光景が日常になった。

視聴者は特定の人の自論を聞きたいのではない。新しい言葉や専門的な言葉や日本だけのガラパゴス的和製英語の意味などを解説してくれればいいわけで、思想までコントロールして欲しいとは決して思っていないのだ。

朝からは冷静に淡々と解釈や説明をしてくれればいいだけで、聞くに耐えない不平不満が始まると、テレビは消すか、消音にする。

テレビ局は気付いていないのだろうか。
もしくは気付いていてわざと、世論のコントロールや統制のために、サブリミナル効果の如く、視聴者が気づかないうちに、すり込みをしているのだろうか。

テレビ離れは加速の一途しかないように思う。

偏るとある種
固定するとある意味
安定するけど
動かない
のは生きている特権を
駆使していない
ということも時にある
動く
とは必ずしも
身体的意味に限定
しては
いけないのです

生きている
ということは
うごく
ということかもしれない
立ち位置も
身体も
気持ちも
心も
なんらかが
うごくという
そんな気がしてきた

時々思うの
ずうっと大昔
大陸がつづいてつながっていた頃
あの辺の人類がこの辺の人類と混ざって
じゃあ一体、
「純」ってどこのどんな状態を指すのかなとか
文字も話ことばも無限に変遷してきたはずで
何世代前かに
大陸の北の方の人類との混血が
ご先祖さまにいたことを知らない場合には
これはどうなの?とか

現代みたいに、いっぱいカタカナや和製英語で英語圏の人に通じないヘンテコなことばで
意思疎通をはかろうとしているけど
さっぱりわからないことだらけ

ある範囲である規定の経済活動して
成り立つ一つの括りができたら、それではあかんのかな


とある企業。
証券会社なのか銀行だか知らない。
自宅に電話してきて家人が在宅かと尋ねるので
不在だと答えた。
すると当社からこういう郵便物が届いているかと言う。

自分の郵便物でさえ日々続々と届くのに
連れ合いのことまで知らないし
家人とはいえ、いちいち何処から何が届いているかチェックしたりしない。
個人情報なのに。

大事な郵便物だから届いてないなら再送するから、届いてなければ、電話をしてこいという。

は?

何を送ったのだと問うと
内容物は本人以外には言えないという。

は?

だったら知らない。
わざわざこっちがこういう郵便物が届いてたか?と確認してやろうと内容物を尋ねたら言えない、電話してこい。

自分の要求だけ通そうとする企業の姿勢、
おかしくないか?
なぜ、そっちの用事にこっちが電話代を払って電話してやるのだ?

おかしいだろ?

結論
改めてそっちが電話してこい

切った。

お金の切れ目は縁の切れ目と昔からいう。
確かにお金がないとどうにもならないことが現代社会においては、かなりの広範囲を占める。

お金の貸し借りを安易にする人もあれば
頑なに貸すことを身内であっても拒む人もある。

綺麗事だけでは生きていけない。

だから「貸してくれ」は命懸けであるべきで、
依頼された側は「貸す」はない、「あげる」しか概念はないと思っている。

返ってきたらラッキー、返らないのは当然だと。
返せるくらいなら、最初から借りたりしないだろうから。

だが同時に貸す相手を信用していないというわけではない。

人を信じるということも大切にしつつだ。

それくらいに思えなければ、返せない人を恨むことになりかねないだろう。
貸す方と依頼する方の罪は同じだ。


強引な親切心は押売りより質が悪い

本人は良かれと思っての行為
相手は必ずしも
喜んでいるとは限らない

そういう相手には曖昧ではなく
要らないものは
要らないと
明確な意思表示を要する

寝た切りの人は街頭演説に行けない

お金がかかる
危険がある

そんな街頭演説は必ず必要ではない
新聞やテレビで政策を述べればいい
そうすれば必要な人が情報を求めることができる

危険とお金が伴う街頭演説なんて
やめても問題はない

悪気なく、日本語の言葉をすり替えるとか
自分の希望に合わせて意味を変形させる人が時々いる

「行く可能性が出てきたので保留」
と言ったのに
「あ、行くことになったんですね」
と決めつけた言葉にすり替える
とか

「一緒に行くか検討してから返事する」
と言ったのに
「一緒に行くって言ったのに嘘つかれた」
と言ったり

きちんとコミュニケーションが取れない人とは
ストレスが溜まる