最近は個人的には、良い状態です。
今いじめ後遺症は楽だし、それに伴い忍耐力がついてきた。フラッシュバックなんていう専門用語を気軽に使っていいものかどうか躊躇もするがフラッシュバックも以前よりも少ない。
今の自身の生活の辛さは、遠因としていじめ後遺症はあるが、ちょっと別問題が原因でしんどい。Kワードを含むいじめ表現も一時的だとは思うが、ようやく少し落ち着いてきてる。
僕がこの1年くらいで意識的に向き合ってきた問題は、良い方向に向かいつつある。ただここにきて、いじめ問題の中で僕が向き合っていなかった部分の問題がかなり大きく膨らんできているように感じている。
人任せではいけない。
元々いじめ問題全体と向き合っている。最近はそう部分的に休憩させてもらっている。
やはり、Twitterではこのあたりのことを書くのは難しいかな。ブログに書こうか
僕は元々、あまり、意見を表明したり、批判したりということは苦手。そういうことをしたくない人。
だけど言わないと生活をすることがこのままでは不可能になると思った。
Kワードの性質と、いじめそのものの持ついやらしい性質とは、本当によく似ているのだなと最近つくづく思う。
いじめがここまで、大変な問題であるという理由は何か。
ひとつは、軽そうに見えて実は非常に重いということ。
みんなの軽い遊びのように見えてしまうこと。
いじめの種類 暴力、金銭、性的なもの、と、暴力、金銭、性的なものでないもの。
悪口、相手を傷つけ、陥れること、精神的に酷く追い詰めること、「お前は価値のない人間だ」と思い込ませること。
そうか。
ぼくは僕がやってきたことを自分自身で無価値なことをダラダラやってきたんだと、どこかのタイミングで勘違いしてしまっていたのかもしれない。
このTwitterでの命の言葉の積み重ね。嘘のない真剣な言葉の積み重ね。自身の成長と、自己卑下の否定のための本気の言葉を刻んできたツイートの数々。僕にとってのインターネットというものの存在というものは元々そういったもの。
途中、価値のない、嘘が混じった、愚痴文句僻み妬み嫉み、甘え、誹謗中傷、八つ当たり、などの、まるで、インターネットに綴る言葉の数々が、まるでゴミカスのようなものだという第三者からの思い込みを、真に受けていたところがあったのかも。
あっまた自分は愚痴文句を、あっまたストレス晴らしをTwitterでしてしまったと、いう、間違った捉え方をしてしまっていたのかもしれない。僕にとって、インターネットにいじめについて書くことは本来死闘である。今も昔もそうである。「観念の遊戯を捨て、実践の道に飛び込んだ」という言葉を読んで、考えさせられた。自分は自分で命を削り人生をかけて書き残してきたインターネットでのいじめについての書き込みのことを、いつの間にか、観念の遊戯をしているかの如く、低く見てしまっていたのかもしれない。自己評価を低くしてしまうという悪い癖に引っ張られてしまっていたのだと今は思っている。山のように誤解が君の肩にのしかかることもあるだろう
そんな言葉も響いている。
山のように誤解がのしかかるということは、もう僕が小学生や中学生の頃からずっと経験し当たり前になってきたことだ。真面目に真剣に様々配慮を重ねながらも10年一剣を磨くという信念で、命の底からひり出すような思いでインターネットに刻みつけてきたいじめの記録。
途中からは、環境が良くなり、個人的ないじめ後遺症も和らいできた。環境が厳しく、いじめ後遺症がキツい時期に、出来なかったことがたくさんある。見たくても見えなかったことがたくさんある。だから、環境がよくなり、いじめ後遺症が個人的には楽になってきた今、当時見えなかったものを見、当時書けなかったことを書くようにし、自身の中にある楽な気持ちを気軽に表に出し表現してみるということを実践している。
まださじ加減が上手くいかず、ちょっと失敗に近いような書き込みをすることもあるのだろうと思っている。今、個人的ないじめ後遺症が楽になってきているという段階に僕はいる。
その段階にいる僕だからこそ、考えないといけないことがある。自分の言葉に嘘はないのか。
そんなことをチェックしなくてもいいのだろうけど、僕の場合は、気を付けて時間をおいてチェックすることが多い。
一度書いた関連の話。それを思い返して、あの話の一部間違ってはいないだろうかと思うことがある。その場合ツイートを消すこともある。だけど改めて読んでみると、いや間違ってない、消すべきではないと思うことがよくある。ぼくは、いじめ被害者として生きたい。
いじめ被害を忘れて無かったことにして普通の人間として生きたいわけではない。よく言われてきたのが、「あなたが幸せになることが、あなたをいじめてきた人達への最大の復讐となる」という言葉。僕はこの言葉を肯定的に捉えているし、僕はこの言葉が好きだ。いじめ被害者としての苦しみを消し去って、いじめ云々は関係のない世界で、一人間として生きていくという生き方は僕はしたくない。人生全てをかけて、いじめと悪と闘い、ほんの少しだけでもいいから、いじめに苦しむ人の役に立てるようになりたい。
そのなかで、いじめとの闘争に完全勝利したい。個人としても。いじめ被害者としても。いじめは、いじめた側が千パーセント悪いという言葉を虚妄にしない。ただの綺麗事にしない。
この言葉の正しさを自身の人生を持って証明したい。それができるのは、いじめ被害に苦しんできた人間でないとできないと思う。僕の人生の使命のひとつ。いじめ被害者像というものがある。
いじめ被害者とはこういったイメージという定形がある。それにより助かった部分もある。
ただ、それは、第三者にとって都合の良い「像」に過ぎない場合も時々ある。今、いじめに苦しんでいる10代の人達のSOSにどう応えるか。
僕にとっては、それこそが本来「実践の道」であるのかもしれない。しかし短絡的ではいけない。刹那的ではいけない。
自身のいじめについての日々の研鑽の積み重ねも必要だと思う。
いじめというものどう向き合うのがいいのか。
今、うつ病気味である自身の状態も無視すべきではない。
それでもやらなきゃならないと思うことがある。
多分だけど僕の今のうつ病の症状は、油断は出来ないが軽めのものだと思う。
いじめについての思索は、うつ病気味になってからは、ままならない。仕事に行けなくても、充分に休養する以外にもできることはある。
今なかなか動けない状態ではあるが、パニックに陥らずに、だいぶ辛くはあるが冷静に受け止めることが出来ていると思う。46歳で仕事出来てないという状態は相対的見たら悲惨かもしれない。だけど、自分のライバルは昨日の自分という言葉がある通り、一般的な46歳という「像」と比べて打ちひしがれない自分でいることができている。
日常に耐えることが出来ている。
将来が不安ということでいっぱいにならないようにするには今を見つめる。過去でもなく未来でもなく。
今の僕が日々実践しているのは、部屋の掃除、部屋の片付けである。今までは、フラッシュバックがキツかったり、テレビラジオなどのいじめ表現に出会う回数が多過ぎたりして、この間のお笑いの日のように毎日何回もブチギレるということがあったりで、部屋を綺麗に保つなどという余裕なんて無かった。それが最近出来るようになってきた。何年か前に毎日が大掃除という目標を掲げ三年間毎日を大掃除の日として意識を変えて過ごすようになった捜し物に人生の大切な時間を使うのがあまりにももったいなくなったので今完全な整理整頓と清潔な空間を保とうとしている。これは、環境が悪くいじめ後遺症がキツイ時には僕の場合出来なかったことだ。
テーマ投稿を試みてみます。
あとで書き足します。