427FOTO Kiss Do I'm in Luck

427FOTO Kiss Do I'm in Luck

2012年12月1日より 恵比寿 ent kukui (http://entkukui.jp)にて個展開催。
それまでの作品制作の日々

Amebaでブログを始めよう!
本来の性質なのか?どうか解らないが
「断片的」に物事を考える癖がある。
ま、このブログも脈絡も無く断片的だが。。。

飽きっぽい?継続性が無い?

まー、兎にも角にも
最初っから最後まで一貫した「筋道を立て」て考えたことが無い。
思考がアッチコッチに跳ぶ。

とは言うものの
どうしても系統立てて何かを言う、書く必要に迫られることもあるので
最終的にはまとまって見える体裁を整える技術くらいは身に付けている、つもりだ。

ずっと同じ「レイヤー」「アングル」で考え続けるのが苦手だ。
単語、フレーズ、コピー等の「メモ類」を集めるだけ集めて
パズルのように組み合わせて、組み上げて、編集していく。
頭の中で。

例えば
世界は小さな小さな「断片」の集合体で出来ていて
私は、それらをを拾い集め「再構成」「再構築」していく。
小さな断片を再構築していく際に
どんな「接続詞」を使えば、より面白くなるのか?
そんなことばっかり考えている。だから
なかなか先には進まない。あぁぁぁ

困っている。

自分の心の底から沸々と湧き上がる熱いモノ
唯一無二のオリジナリティを!

無いなぁ。
あるとすれば
「どうすればこの世界が面白く見えるか?」
ってことくらい、かな。と
だから
手法や媒体は何でもイイ、となる。
面白いと思えれば何でもやる。
と言っても
時間や資金が無限にある訳ではないので
「対費用効果」みたいなのは考えてしまう。

ココが小っちゃいよね~
なんか人として。苦笑

その余裕を生む為にも頑張っていかなきゃ、なんて思う。
でも
Aが出来るようになると、それに飽き足らず
Bが出来るようになりたくなる。で
Bが出来るようになると、今度はC・・・
あぁ無限地獄。

この記事の中でもアチコチ話しが跳んでしまう。



ナゼこの世界は「断片」でしかないのか?

私は基本的に「絶対」とか「100%」なコトは無いと思っている。
(世の中の事象として)絶対的な「白黒」や「正誤」は無く
あるのはただ、その事象に対する個人的な「解釈」のみである、と。

コインの裏表を同時に見れないのと同じように
人は「自分の立ち位置」から離れて「世界」を見ることは出来ないし
一つのアングルからしか(「同時」に多角的に)見ることが出来ないからだ。

自分の立ち位置から見える範囲は人それぞれだろう。
遠くまで見渡せる人もいれば
近いところしか見えない人もいるだろう。
これも
どっちが良い悪いではない。
ただ、そういう事実があるだけだ。

遠くまで見渡せてしまうからこそ
見たくないモノが見えてしまうかもしれない。

私が大事だと思っているのは
直面した事実に対し、どう「感じ」
どう「解釈」するか、ということだ。
(ちなみに私はその二つの間に「分析」が入る。)

余談になるが(って殆ど余談で出来たブログだが)
最近気になっているのが
「感じる」のと「解釈」するのと
順番が違えば、その後の色んなことが変わってくんじゃないのか?
ということだ。
私は「感じる」☞「解釈」の順番なのだが
他人はどうなんだろう???(余談ココまで)

しかし、それは「ある、一つ」の解釈でしかない。
時間はかかってしまうが
出来るだけ「立ち位置」を様々に変え
色んな「解釈」をしてみる。

で、そんな解釈を他人様に投げ掛けて(アプローチして)みる。
そこで生まれるコミュニケーションが面白いんだろうな、多分、自分的には。
もちろん
相手方にもコミュニケーションを楽しんで貰えるよう仕掛けはしていく。

そのコミュニケーションにおいて重要になって来るキーワードは
「共感」ではないか、と感じている、が
共感については、また別の機会に。


先に
「どうすればこの世界が面白く見えるか?」を考えている、と書いたが
そろそろ
「どうすればこの世界が面白くなるのか?」
そして
「どうすればこの人たちと幸せになれるのか?」を
考えていかなければならないな、と
そんなコトを思う8月15日。
ここ1年程
肩書きを「Photographer」ではなく「Art Director」としている。
別に肩書きを変えたからって
自分の中で何が変わるって訳でもないのだが
対外的な意味合いの方が非常に強い。

そもそも元来
「写真家」は「演出家 Director」であった、はずなのだ。
何故なら「画」に対する全責任を負っていたからだ。
最終的な仕上がりまで(経験に基づき)予想し
被写体の操作
照明
ロケーション
(場合に因って)衣装、メイク
等々・・・
写るもの全てをコントロールする役割を担っていた。
それらをコントロールした上で
シャッターを押し、「写真」を撮っていた。

今はシステム上「分業化」が進み(特に広告の場合)
演出はAD(Art Director)が行う場合が多い。
そのADは殆どがデザイナー出身。

最終形態が「グラフィック」になるのだから
グラフィックデザイナーが演出するのは自然な流れだろう。
そう、いつしか
「写真」はグラフィックの「素材」になって(成り下がって)しまったのだ。

写真を!演出を!奪り還せ!
と独り気張ってみる今日この頃。


最近
世の中の色んなモノが「雑」になってきたなぁ・・・と思う機会が多い。

雑なコピー
雑な写真
雑な文章
雑なデザイン

制作者が「意識的」にやっているなら
それはそれで
ちょっと見てる人をバカにしてるなぁ。。。と思うが
予算の都合や時間のコトとか(ま、見ている側には関係ない話しなのだが)
今の厳しい現状で「色々あるよね」「次は頑張ってね」とか
気持ちを挟む「余地」があるように思う。
その隙間にストーリーを妄想し
別の意味で楽しむコトも出来る。

厄介なのが「無意識」に雑、なことだ。
簡単に言えば
制作者に「学」が無いんだな。
と言っても学歴のことではなく「教養・文化」ね。

今はPCがあれば割と何でも簡単に出来てしまう。
知識や技術が無くてもスグに「それっぽく」見せるコトが出来る。
技術の進歩ってそういうことだよね。
便利、便利。
でも、それは「出来ていない」んだな。

写真の世界では
プロとアマの境界がかなり曖昧になってきている。
下手な写真でも「それっぽく」修正、レタッチすれば
「それなり」に見えるようになる(気がする)。
見る側も「ちゃんと」写真を見れる人なんて少なくなってる。
だから「それっぽい」モノでも「アリ」になる。

勿体ない!
ホントは写真(写真に限ったコトでもないね)って、もっと面白いのに!

学の無い制作者が雑なモノを垂れ流して
アホな人たちがソレを見て刹那に喜んでいる。

「表現に対する『深み』が無い」んだな。

丁寧な「仕事」をするには
ソレを成し遂げるだけの技術と知識と経験が必要になってくる。
その3つ、それぞれを手に入れるには
どれも「時間」を必要とする。

世の中、文明が発達し便利になってきている。
その「便利さ」の恩恵の殆どは
様々な「時間の短縮」が可能になった、コトではないかと思う。

遠くに行くのに飛行機で。
機械の製作はロボットに。
複雑な計算はコンピューターに。

どんどん人間の「時間」には余裕が出来てきているはず。
でも
その余った時間は一体どこにいっているのか?
余暇を増やし、それを有効に使うことが「豊かさ」や「幸せ」だったんじゃないの?

楽をして、雑な生き方をするために
限られた時間を使うのは勿体ない。

磨きに磨いた技術
蓄えに蓄えた知識
それらを余すこと無く製作にぶつけ
また、その過程で得られる様々な経験

それは自分のためではない。
誰かの役に立ち、誰かの喜びになることを信じている。