人は誰しもが長所を持っている。


一人で時間を潰せるプロだったり、曲作りだったり、ギターだったり、話だったり、コメント対応だったり、甘え上手だったり。


しかし長所があることは、幸せになれる要素としては微細である。


それどころか、


異性からモテモテでも、愛する恋人がいても、人気者でも、スポーツ万能であろうとも、


心から不幸を嘆く者もいるのが事実なのだ。


逆に苛められっ子だからといって、当人は別段そこまで自らが不幸だとも思っていない場合もある。


それは当人がイジメを問題事だと思わずに、そこに着眼していなかったり、他に目を向けるべき問題があったりするからだ。


要するに、世間一般の『これであったら幸せ』『こうであったら不幸』は、


個人的な幸せには当てはまらないこともあるのだ。




私が現在抱える不満という名の不幸を紹介しよう。



それは退屈感、倦怠感、惰性感、不充足感、マンネリ感


要するにまとめると、『人生がつまらない』ことだろう。


私は知能以外のスペックは並程度であろう。


では低知能を他の要素で補完することは出来るか?


例えば才能という長所ではどうだろう。


答えは否だ。


深い穴を無理に埋めようとすると、周りの土壌が乏しくなるだけだ。


だから努力という土の代わりに、誤魔化しという水を入れて、プカプカ浮かんでいれば良い。


そうして他人にはその穴があたかもないふりをして、その穴と付き合っていくしかないのだ。



その穴を埋めるように補完してくれるパートナーがいれば幸いだ。



解りやすく例えると、片腕の欠損した者が、腕を生やそうと努力するのは無駄なことと同義だ。



知能の場合も、心の場合も、


形が不明瞭なだけで、欠損は存在しうる。


骨が細いと、いくら鍛えても太い筋肉には耐えられない。


見せかけの筋肉は、身体を壊すだけ。



だから自分の度量を知ろう。


自分の不遇や欠陥を受け入れること。


そうすれば辛い境遇を緩和させることはできる。


しかしそれよりプライドが大事なら、もういっそのこと苦しもう。


苦しむことを選ぶことも別に悪いことではない。


だだ好ましくはないだけ。


多くの者に嫌われるが、嫌われ者同士の結束は強まる。


結局どの道を選んでも一長一短なのだ。


幸せに生きることだけが人生ではない。



だが私は幸せを、出来るだけ優先するってだけの話だ。