、*笹川繁蔵*
笹川繁蔵について
1810年(文化7年)生まれ  幼名(福松)三男
*父(けさぶろう)須賀山大木戸生まれ
☆38歳  死亡
☆母(ぬい子)
☆助五郎より18歳若い(本名 石渡助五郎)
○角力が三度の飯より好きだった

*笹川一家(子分衆)
☆勢力 富五郎
☆清滝の佐吉
☆小南の庄助
☆五郷内の忠蔵
☆雪崩の若松
☆羽計の勇吉
☆夏目の新助
*子分は100人を超える
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笹川繁蔵
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☆繁蔵の亡くなった後
胴体は銚子市上松町で墓を発見(カマスに詰めて捨てられる。
墓は西福院(さいふくいん)
☆笹川繁蔵は(数学)(漢学)(剣)を学んでいる。
☆西福院(さいふくいん)岩瀬家の繁蔵の墓には、元服の時に剃り落とした前髪を埋めたと言われている。ビャク橋付近の(血こんの)ついた土も埋めたという。
☆ビャク橋とは方言で崩れるの意味
☆暗殺はビャク橋どんだら川の付近で暗殺者3人で笹川繁蔵を暗殺したと言われている。
☆ビャク橋付近は右側(西)一帯が栗畑  左側(東)は篠藪(しのやぶ)畳み  その辺りに大きな木があり
笹川繁蔵親分は 無口だったが[にっこり笑ったら三里先までにげろ]と言われてた。
普段は(鎖かたびら)を肌から離さなかったが暗殺されたときは油断してたので。
1835年(天保6年)6月2日に関東取締出役(でやく、しつやく)に召し捕られる(ハ州廻り)
ビャク橋付近で暗殺1847年7月6日
1844年(天保15年)8月4日(2日前)笹川繁蔵側5〜6人が飯岡助五郎宅へ切り込んだ。
1844年(天保15年)8月6日大利根河原の決闘 上意をもって笹川繁蔵側を襲ったが飯岡側は死者3人を出すなど敗北 
決闘のあと三年 草鞋を履く
侠客(きょうかく)とは義侠 任侠を建て前として世渡りする人 町奴(まちやっこ) 博徒(ばくと)など 男伊達(おとこだて)侠者
1847年  暗殺 38歳で亡
明治維新(1868年)は笹川繁蔵亡くなってから約20年後のこと
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