○3章 水泳人生に諦めのついた山口
山口で一番最初の勤務後は、7000の泳ぎ込み。
気合が入っていた。全ては4週間後の、14年ぶりの大阪での試合のために。
一般のサラリーマンであれば朝出社して、夕方退社するのが当たり前であるが
岩国ではそれが崩壊し、7月から三交代制になる。
朝は7〜15時勤務
夕は15〜23時勤務
夜は23〜翌朝7時勤務
3日朝勤務1日休み
3日夜勤務1日休み
3日夕勤務1日休み
これを7月からずっと繰り返すことになる。
とりあえず6月まで全力でやるしかない。
それ以降は何も考えない。(怖くて考えられない)
選手クラスにも入会し、泳げる日は参加させていただくことに。アップ5分後に100×8のメイン練習をやったりと慣れないことが多かったがそれでも何とか適応した。
4月の大阪での試合。
異様な高揚感で試合に挑んだ。
案の定、イトマンの子達からは白目で見られる。
申し訳ないけど、JSSの子達にも同じことが言える。
何が何だかわからない心境だったけど、
試合結果はかなり良かった。
特に400コメ決勝は200ブレ予選の45分後と言う中で久々に4分30秒を✂️。実に1年半ぶりのことだった。ベストまであと2秒強。
今時点でこれなら大丈夫。そう信じていた。
そのタイムがシーズンベストになり、現役最後のレースでそのタイムを越すことはできないとはその時は当然知らず・・
岩国での生活は時があっという間に過ぎていった。
点で見れば長いのに、線で見たら短く感じる。
大阪はその逆だった。
本当に気付けば6月になっていた。
あーあと一ヶ月で三交代が始まる。。
ある日、JSSに所属する、一つ上の幼い頃のライバルから電話がかかって来た。少し慌てた様子だった。
「A井先生、転勤やって・・」
衝撃だった。
予想もしてなかった。
転勤って本当に誰得なの…
でもA井先生のいない深井なんて想像が付かない。もう、決断するしない。
その週試合が控えていたので、先生に胸の内を話した。
「先生の転勤は想定外でした。一年は在籍させていただこうと思っていました。ただ私も選手最後になるシーズンだと思っています、ここで最後、イトマン所属にさせてください」と。
本当に申し訳なかった。
だけど時期を考えたら、早くイトマンにしておきたい自分もいた。いつ終わるかわからない、せめて選手を始めた場所で最後は終わりたかったから。
その時から、何なら大学生の途中から、選手を退いたらやりたいことは決まっていた。
「指導者として水泳に携わる」
ただ職業柄、選手を諦めることになる。
だから諦めずにここまで続けてきた。
水泳とは違った目線の仕事もしてきて、
たった数年で沢山の経験を積んできた。
だけどもう、環境的にも限界かな…
もういいでしょ。
(そう思った背景は後述。)
あとはそれをいつ、言うのか。
それだけだった。葛藤の日々だった。
自宅近くに市民プールは無い。
片道80分かけて広島に出ないとならない。
電車は1時間に一本の路線。
午後練が終わっても気軽に食べられるお店は限られる。
環境的には本当に申し訳ない言い方だけど、
劣悪以下だった。自分の手では、どうしようもできない。
同時に三交代も始まった。
どうしたらいいんだ・・・
それでも勤務前、勤務後は当たり前のように練習。
澄んだ空気と綺麗な景色に救われた。
世間で言う夏休みが終わる頃。。
選手クラスの練習メニューがほぼ毎回同じであり、内容にどこにも強弱のないメニューがひたすら続いた。もっとガンガン泳ぎたい。もっと大阪や埼玉の時のように、競える環境の時は競って練習したい。
もうこれ無理や。
選手クラス抜けて完全に、1人で練習した方がいい。
色々な理由をつけて、かつ選手として先が長くないことを伝え、選手クラスから抜けたい話をした際、衝撃の一言を告げられた。
「俺、高校生以上見る気ないから」
その一言が決め手になったわけではないが、山口の生活はもう、終わりにするしかないと決めた。
追い打ちをかけたその言葉。
こっちにいるだけ時間の無駄。
もう社会人選手権が最後のピークになってもいい。あと2ヶ月しかないけど、頑張るしかないわ。
そう決めて、指導者になる準備を水面下で始めた。
9月はコロナに感染して8日も泳げない日が続いた。体を戻すのに必死だったけど割とすぐ回復。
ただ選手クラスを抜けたことで毎週木曜日は休館日で完全に泳げないので、往復二時間半以上かけて広島に行かねばならない。
大変だったけどもうこんな生活は最後だと思うと、勝手に体が動いた。
この頃から、仮に希望の配属先になった時のことを考えて色々な資料を作りはじめる。
その時間は今でも続いているが正直楽しい。
そして10月になった。
長水路で練習するがために、
一泊二日でわざわざスイムピアまで行った。
お金のことなんて、どうでも良かった。
最後だから。
面接も終え、ついに決戦の時がやって来た。
3回目の社会人選手権。
種目ごとに色々な目標があったが
全てに共通することはただ一つ。
「同じ会社の人に1人でも多く勝つ」
移動の疲れもあり、
また直前のコンディションが思わしくなく
苦戦が続いたけど、気持ちは負けなかった。
200、400のコンメの決勝は2本とも会社の人の隣だったけど、格上なこともあり負けてしまった。ただ400は、300までは僕が上回っていた。
フリーでくることはわかっていたので、あの差であれば抜かれることはわかっていたが、
抜かれた時悔しかった。でも体が動かない。
タッチして表彰台ではないこともわかっていた。
電光掲示板を見て4番と見えた時、
これまで流したことのない大粒の涙が流れた。
僕は19年間、悔しくて泣いたことは片手に数えるくらいしか無い。
だけどこの時だけは違った。19年分が溢れ出た。
すぐ横のサブプールについた時、
表彰式の音楽が流れた。
表彰台に登るために、
イトマン江坂の名前を聞くために
頑張って来たのにそれが果たせなかった。
さらに大粒の涙が溢れ出た。
いい大人がこんなに泣くなんて、
周りからしたら異様な光景だったと思う。
すぐに、選手を始めて最初のライバルが走って来てくれた。うずくまっていたので顔は一度も見てないが、声でわかった。
「よくやったよ」
彼にはスイムピアの練習の時など、この半年本当にお世話になった。
「ごめんな」
彼が来たことで涙は止まらなかった。
こんなドラマチックなこと、
僕の水泳人生には想像ができないことだった。
1500フリは
アップして賞状ゲット作戦で挑んだものの、
同じ会社の人が数名エントリー。
なんでこのタイミングなんだよ、と思いつつ、なんとしても得点したいと思い、本気で泳がない中で最大限ゆっくり泳いだ。
2人には負けてしまったけど、1人には数秒で勝利。僕は8位だったので、その方の得点をなんとか抑えることに成功。
翌日の200コンメと200ブレ。
もう疲労が限界の中、どちらかを棄権する予定でいたけど最後くらい欲張るしかないと思い、レース間隔40分と言う中で強行突破。
200コメは体が動かず、タッチした瞬間
「落ちた…」と思ったけど棄権者に救われて8番滑り込み。
運も実力のうちなんだなと痛感した。
40分後の200ブレ。
二つ隣は翔馬。
あー出て良かったな、彼と泳げるのも最後かもな。久々に召集所で話し、楽しめて泳げた。
感覚もかなり良かった。
でも最後、隣の子にタッチ差で刺されてしまったが抜き返す体力は残っていなかった。
決勝ラインまで0.23秒。
抜かれた子が決勝ラインだった。
悔しかったけど、清々しい気持ちだった。
チャレンジしたからこその結果だったから。
「やる」か「やらないか」で迷ったら
「やる」選択をすべき。
「やらない後悔」は「やった後悔」より大きい
200コメの決勝は瀕死寸前だったけど、
タイムは上げられ、順位も一つ上げられた。
200.400コンメの決勝前、
全員の顔を見た。この人たちと一緒に泳ぐのは最後なんだな。僕以外学生時代は全員格上どころか、インカレで2本泳いできたメンバー。
そこに僕がいることは、場違いかも知れないけど自分の手でそれを覆して来たと思っている。
俺だってインカレで2本泳いできたと誤魔化してもきっとバレないくらい、そのメンバーに同化して来たと思っているし、そう思って社会人ではレースして来た。昔勝てなかった相手に長年掛けて勝つ。ベストでは上回れなかったけど、勝ったという自信には変わらないし、それが数少ない水泳をやって来ての嬉しさでもあった。
2週間後の秋葉山選手権。
メインレースとして最後。
初日の200ブレは、社会人選手権のリベンジと思い泳いだ。予選からまあまあ体は動き、前半は公認試合で初めての1分5秒台。トータルも社会人選手権の時より0.7秒程タイムを上げられた。
エントリー段階の時、名だたるメンバーがいるのはわかっていたが3番通過は気持ちよかった。
決勝はすごく落ち着いてレース運びができた。
前半こそ0.3秒ほど予選より遅かったけど、
中間を落とさないための前半だったのでトータルは0.3秒アップ。予選は全開だったので、決勝でもきちんとタイムを上げられた。
その練習がちゃんとできていたことが証明され、やって来たことに間違いはなかったと感じた。
予選の前半はベストラップ、150mまでもベスト時とほぼ一緒というオマケまでついた。
社会人選手権であれば問題なく決勝に行けるタイムだったし、それなりに戦えたタイムでもあった。
完全に復調の兆しが見えた、メインレース最後の試合。それでも区切りはついた。
最後までレースを見届けてくれた人がいるけど、
自分らしい、魅せたいレースが少しだけできたのはすごく嬉しかった。もう少しタイム欲しかったけどね。。でも最後の晴れ舞台を見て欲しい人に、見せてあげることができてよかった。
翌日の400コンメ。
エントリー段階から簡単に決勝に残れるようなメンバーではないと思っていた。
アップも体が動かない。やばいな…
最後になるかもしれない、不吉な予感がした。
気がつけばレース前、江坂の子達全員に
「ありがとうな」と声をかけて回った。
まだ出会って一年半と短いながらも、そんな期間を感じさせないくらい、濃密な時間だったと思っている。
レースは300までは順調だった。
これだったら残れる。行けるじゃん俺。
しかし最後のフリーが地獄だった。
特にラスト15m。完全に動かなかった。
決勝ラインまで0.65秒で9番。
もう少し決勝ラインは高いと思っていたけどそれでも、インターハイの標準記録よりも速い決勝ライン。
悔しさで終わった。
決勝のレースはもちろん見た。
2本目で落とす選手を見て、負け犬の遠吠えかもしれないけど、俺ならここまで落とさないとは思った。やっぱりココロもカラダも切れてない。
そう再認識できた試合だった。
この先後悔は絶対残る。
後悔していないわけがない。
だけどその後悔、まだ残っている熱意、
これら全てを後輩たちに還元する。
それがこれからの僕の仕事ですから。
これだけ転勤が多かったのも何となく察してはいます。あえて言葉にはしませんが、これまでの苦難はこれからの選手たちの苦難に比べたらきっと大したことはないです。
人の気持ちを理解することが大切になる職業。この数年間の修行は、これからの職に必ず活きると信じていますし、誰よりも思いやりを持っていきたいと思います。それを学べた数年間でした。
これまでの死ぬほど長い文章を要約すると、指導者になる理由は早かれ遅かれ、いつかその立場になりたいと思っていたから。そのタイミングが少し早まった、だけです。
引退という言葉を使わなかったのは、
この先選手として試合に出場できる機会が生じた場合、確実に出場するからです。
でもその立場は「選手」に変わりないけど
「選手兼指導者」と思っています。
メインは選手ではない。一線は超えない、
なぜなら主役は
「教え子達」ですから。
次は第4章 今後のことについて。
しばらく間を空けて書こうと思います。