ドイツ留学の締め切りが終わってたり、
バイトが決まらなかったり、
電動自転車が盗難にあったりしたあんじぇらです。
どうもw
ドイツ留学の件は一応くわがた氏にメールしてみましたが、
まぁ無理なら無理で、サークルの夏合宿に行けるし、いっか。
次からは自分のことは自分で気をつけとかんとな。なんて考え方を変えて対応しています。
バイトの決まらない件は、まぁ面接受けまくればどっか受かるだろう面接はタダや、という考えで対応しています。
電動自転車は、警察に届けたし、おまけにバッテリーが挿入されてない為、普通の自転車より重いし漕ぎにくいから恐らく乗り捨てられてるのだろうってことで、了解するとともに、バイトが決まれば、そのお金ためて買えばいいし、それまでは普通のチャリんこで代用すればいいし、ダイエットにもなるし。とにかく鍵つけっぱなしについては気をつけよう。という考えで対応しています。
最近よく思うことがあります。
この世には「考えたほうがいいこと」と「考えなくていいこと」の2つの出来事があるということ。
考えて、物事がよく運ぶ場合と、考えることで、悪化する場合とがあると思うのです。
で、それは「思考する・思案する」のと「悩む」の違いで、
定義が曖昧なために、そこの線引きをどこでするかっていうのは非常に微妙なところなのですが。
自分のことは自分がいちばんよく分かっているはずなのに、
気がつけば、悩みの渦にぐるぐるはまって抜け出せなくなっていた。ということが時々ありました。
それに自分がその渦の最中にあるので、客観視して見れないというか、
自分がいかに実体なきもの(どうしようもないもの)にとらわれているかわからなくなってしまうわけです。
ある程度時間がたって、環境が変われば
ああなんてくだらないことに執着して悩んでたのだろうと思うわけです。
考えてもどうしようもないものについて、えんえんと格闘してるわけです。
誰だってみんな程度の差はあれ「善く生きたい」と思ってるはずで、
悪人であれ、変人であれ、個々の「幸せ」を感じていたいはずだと思うのです。
その幸せを侵すものに「不安」を感じたり、
「不安」に対してなんらかのアクションを起こす事で自分に「反省」を促して、善く生きようと模索したり。
でも、模索したところで、「なるようにしかならない」こともあるのだということに気づいたのです。
音楽におけるコード進行と同じで
この流れで来たら次はこのコードかこのコードしかないだろうっていう、
それ以外あてはめようのないことが、この世の中にもあるのだろうと考えたわけです。
私は不思議と合点が行きました。我ながらなるほどと思いました。
思い通りにいかなかったりしてもやもやすることがあっても、
「今はAメロなのだ」と思うと自然にもやもやが解消されてゆきます。
そういう考えを持って以来、不思議と悩むことが少なくなりました。
すべてがうまくいくことなどありえないし、常に良い状態でいれるというのも、またあり得ません。
善く生きようとする気持ちは大事だけれど、
焦ったり、不安を感じたりして、それで自分を傷めつけていることもあると思います。
善く生きようとする気持ちが、本来善く生きる邪魔をしていたりすることだってある。
だから、もっといろんな意味で自分に寛容に生きなきゃだめです。
不安に強くならないと。
不安と戦う強さより、不安を見過ごす強さを覚えたほうがよほど現実的です。
不安なんていわば善く生きたいと思う欲の所産です。
時々は逃避しつつも現実に即した生き方を覚えたほうが賢明だと考えます。
当たり前っちゃ当たり前なのかもしれないけど、この当たり前がなかなか難しい。
こう、うまく気持ちをセルフコントロールする訓練が必要だなーって思っているあんじぇらです。
反省も大事だけど、負を引きずらない姿勢。
これ難しいけど、すごく大事。
こういう思考を身に着けるには、様々な苦い経験が必要なのでしょうね。
大人になるとは、こういうことか。