我々の地球文明とは、より高次の視点から時間を収縮させて見れば、振り子のようなものだろう。
際限なくチックタックと永遠の時を刻む、天空の大時計の巨大な振り子のように、文明が極度に進化した一瞬の時代と、その破壊ののちに訪れる廃退と原始時代のはざまを、何度も往き来しているにすぎないのかもしれぬ。
一つの文明の種が芽生え、高度な科学文明が勃興し、人の心が相対的に退廃し、その結果文明は自滅してしまう。
そして廃墟となった地上に年月がゆき過ぎ、かつての繁栄も荒廃も神話の断片となって忘れられ、ふたたび異なった文明の種子が芽を出すのだ。
栄枯盛衰は時間と空間の二重の枠に閉じ込められた、我々地上に生を営む者たちの無常の姿にほかならぬ。
だからこそ、大きく様変わりを繰り返す惑星地球の住人として、多彩な世界に転生を繰り返すことができたというわけだ。
現在は振り子が、一方の極に達して静止しようとする寸前の時代にあるのだろう。
その証拠に、次の時代の地均しにいそしむがごとく、宗教は役割を忘れ、政治家は金と利権に群がり、フェイクニュースはお茶の間にあふれ、素人芸人の愚にもつかないお喋りが空虚な心に毒を撒く。
テロのような映像文化が、暴力と倦怠と底なしの欲望をあおり、ますます地上に縛り付ける。
そのようにして、どの文明もまず心の領域に楔を入れられ、見える世界に崩壊が及ぶ。
自業自得と言えばそれまでだが、このゲームはどこまでも際限なく繰り返せるわけではない。
神の世界を忘れ去った時、神々は実力行使に取り掛かる。
ブランコ遊びにもルールがあり、羽目を外せば強制力が襲うだろう。
後ろの正面に起こった崩壊の教訓を学ぼうとしない人々は、直前で悔悟できるだろうか。
それとも、もう一度、今度は別の牢獄のような星に転生するつもりだろうか。
あるいは自ら進んで宇宙の最終空間に身を投じ、魂の屑として消滅するつもりだろうか。
(昨年のブログ 「振り向けば獅子座の墓碑銘」より)