「いや果ての過去のことだ。
余はもはやそのような定理を思い起こす必要を感じぬ」。
凛冽にしてふくよかな母性さえ漂わすイフィシスは、恐れげもなくサタンが不要と定めた話題を告げる。
「あらゆる魂は神を必要とせず、自らの理知と力によってのみ存在しうる。
これがあなたの唱えた説でした」。
サタンは息を飲む美しさの金髪を映えさせ、豊かな女性ぶりを発揮するイフィシスを凝視した。
「説ではなく真理であると、余は告げたことがあった。
それが間違いだとは未だに思ってはいない」。
私たちが「真理」として認識できる最高位の定理に、サタン・ルシフェルの定めた一言があると「アトランティス」は語る。
人々は麗しの明星ルシフェルの告げた、地獄界最深部からの希望と救済の輝く閃光に耐え得るだろうか。
光は天上の輝く世界からのみ降下するのではなく、地獄の暗闇の底知れぬ虚無を貫いて立ち昇ってもくる。
常人には立ち入ることのできない二つの世界が、遥かな天上と底なしの地下深部とに分かれて人の精神限界を形成している。
その境界線の間を、ある時は上昇し、ある時は下降して輪廻を続ける存在が我々だ。
その我々が、「神」を必要としなくなれるのは、いったいいつの日のことだろうか。
いや、乳飲み子のように、「真理」という母乳を生みの親に求め続けねばならぬには、あと何億年の歳月を要するのだろう。
人が神を求め続ける限り、「神」とは陽炎のような存在であり続ける。
近づけば消え去り、そのはるか先に「神」なる存在は場を移してしまう。
かくして永遠なる神を求め続ける輪廻転生の旅は、とめどなく続いてゆく。
それが霊性進化の仕組みに他ならないからだ。
幼子ならば父母を「神」と呼んで、その胸奥に小さき自身を委ねればよい。
しかし光を求め、平和を求め、歓喜を求める永遠の旅の目的は「神」ではない。
それこそ「自らの理知と力」そのものだ。
究極への果てしない人生旅のそこここには、神をかたどった道標が進むべき先を示してくれている。
サタンの棲む地獄の最深部も、様相は違えても同じ目的の道しるべが立っている。
ルシフェルがそこに赴いた、その一つの理由がわかるような気がした。
(昨年のブログ記事「振り向けば獅子座の墓碑銘」より)