サンデーサイレンスのブログ
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サンデーサイレンス

サンデーサイレンス(Sunday Silence、1986年 - 2002年)は、アメリカ合衆国生まれの競走馬、種牡馬。


競走馬時代にアメリカ三冠のうち二冠、さらにブリーダーズカップ・クラシックを優勝し1989年のエクリプス賞年度代表馬に選ばれた。


引退後は種牡馬として日本に輸入され、産駒の活躍が日本競馬界を根底から塗り替える一大旋風を巻き起こした。サンデーサイレンスを起点とするサイアーラインは日本競馬界における一大勢力となり、サンデーサイレンス系とも呼ばれる。


そのイニシャルからSSと呼ばれることもある。


1996年にアメリカ競馬殿堂入りを果たした。

サンデーサイレンスの概要

1988年10月にデビュー。


翌1989年に二冠(ケンタッキーダービー、プリークネスステークス)、ブリーダーズカップ・クラシックなどG1を5勝する活躍を見せ、エクリプス賞年度代表馬に選ばれた。


翌1990年に右前脚の靭帯を痛めて競走馬を引退。引退後は日本で種牡馬となり、初年度産駒がデビューした翌年の1995年から13年連続で日本のリーディングサイアーを獲得するなど優れた成績を収めた。


2002年8月19日に左前脚に発症した蹄葉炎を原因とする衰弱性心不全のため死亡した。


サンデーサイレンスの誕生からデビューまで

G1競走を6勝し、後に数々の名馬を送り出したサンデーサイレンスの生い立ちは、その活躍ぶりとは対照的なものであった。


父こそ名種牡馬ヘイローだが、母ウィッシングウェルは米G2競走に勝ったものの、血統が一流とは言えず、さらに生まれたときから脚が外に曲がっているという競走馬としての欠点も持っていた。


当歳(0歳)の時には下痢から脱水症状になり生死の境をさまよったことがある。


1歳時のセリでは2回も売れ残った。


しかも売れ残ったセリの帰りにトラックの運転手が心臓発作を起こしたため馬運車が事故に遭ってしまい、同じ馬運車に乗っていた他の馬がすべて死んだ中でサンデーサイレンスだけが生き残った。


2歳時のカリフォルニア州で行われたトレーニングセールでは3万2000ドルで一旦は売れたものの生産者のアーサー・ハンコックが買い戻し、彼の所有で競馬に出走することとなった。


後に、調教師のチャーリー・ウィッティンガムが半分の権利を取得し、さらにウィッティンガムが取得した権利の半分を医師のアーネスト・ゲイラードが取得した。

サンデーサイレンスの競走馬時代

2歳時を3戦1勝で終え、3歳の初戦を勝利すると、続くサンフェリペハンデキャップを勝ち、さらにサンタアニタダービーを11馬身差で大勝し、アメリカ三冠競走に挑んだ。


三冠競走では、良血馬イージーゴアがライバルとなり、生まれも育ちも対照的なこの2頭の争いとなった。


ケンタッキーダービーでは、良血馬イージーゴアに人気が集まったが、馬場コンディションの悪い中で、最後の直線コースで鞭に反応して左右によれながらも、イージーゴアに2 1/2馬身差で勝利した。


プリークネスステークスでは、最後の直線コースでサンデーサイレンスとイージーゴアの叩きあいとなり、最後はハナ差でサンデーサイレンスが制した。しかし三冠の期待がかかったベルモントステークスでは、いつもと違って逃げに出たイージーゴアに8馬身差の2着に敗れた。


その後スーパーダービーを勝ち、続くスワップスステークスでは2着の後、ブリーダーズカップ・クラシックに出走した。ここでは追い込んできたイージーゴアをクビ差振り切って優勝。


この年のエクリプス賞の年度代表馬、最優秀3歳牡馬のタイトルを獲得。翌1990年も現役を続け、4歳初戦のカリフォルニアンステークスに勝ったが、続くハリウッドゴールドカップではクリミナルタイプの2着。


このレースの後に右前脚の靭帯を痛めて引退。通算14戦9勝2着5回と、3着以下になったことは無かった。


1996年にはアメリカ競馬殿堂入りを果たした。また1999年に競馬専門誌のブラッド・ホース誌が発表した20世紀のアメリカ名馬100選では第31位となった。

サンデーサイレンスの種牡馬時代

引退したサンデーサイレンスだったが、良血とは言い難かったこともありアメリカでは種牡馬として人気が出る見込みが薄かった。


そこで、すでに4歳初頭にアーサ-・ハンコックの持つ所有権の半分(全体の25パーセント)を取得していた吉田善哉が1100万ドル(当時の為替レートで約16億5000万円)で購入、100パーセントの権利を取得したため、1990年に日本に輸入された。


翌1991年より社台スタリオンステーションで種牡馬生活を開始した。


ちなみに繋養先ではメジロマックイーンと仲が良かったらしく、普段は気性の荒いサンデーサイレンスがメジロマックイーンがそばにいるとおとなしくなることが多かったという。


そのせいもあってか、サンデーサイレンスとメジロマックイーンは隣同士の放牧地に放牧されていた。


当初サンデーサイレンスの評価はさほど高くなかった上に種付料が1100万円と高額であったため、交配の申し込みは多くなかった。


サンデーサイレンスが最も多く交配したのは吉田が経営する社台ファーム千歳に繋養されていた繁殖牝馬であったが、その結果誕生した馬に対する同牧場の関係者の評価も高くはなかった。1994年にデビューした初年度産駒は札幌2歳ステークスで1着と2着を占めたのを皮切りに次々と重賞戦線で活躍を見せたが、そのことは関係者にとっても予想を上回ることであった。


サンデーサイレンスはその後も活躍馬を次々と輩出し、初年度産駒がデビューした翌年の1995年にリーディングサイアーを獲得。


以後2007年まで13年連続でリーディングサイアーに君臨した。


また、産駒は日本の中央競馬のGI級競走のほとんどを優勝した。1998年に始まったセレクトセールでは毎回産駒が高額で落札され、種付け料と産駒の購買価格、獲得賞金、種牡馬シンジケートの額を合計するとサンデーサイレンスが1年間に動かす金額は100億円を超えると言われるようになった。


産駒は海外のレースでも活躍を見せ、日本調教馬は海外でG1を3勝した。


さらにオーストラリア生まれのサンデージョイ(Sunday Joy)がG1のオースラリアンオークスを優勝するなど、海外生産馬および海外調教馬からも複数の重賞優勝馬を輩出した。


日本国外で活躍する産駒が出現した影響から海外の有力馬主がセレクトセールでサンデーサイレンス産駒を購買し、さらに繁殖牝馬を日本へ移送して交配させるようになった。


2001年に行われた第4回セールではロッタレースの2001を巡ってゴドルフィンとクールモアスタッドの代理人が激しい競り合いを演じた。

心不全で死亡

2002年5月、それまでに怪我をしていた脚をかばった負担が原因となって左前脚に蹄葉炎を発症、懸命な治療の甲斐なく8月19日に衰弱性心不全のため死亡した。現役時代は日本で走っていないことから葬儀などは行われず、遺体は社台スタリオンステーションの小高い丘の上に埋葬されている。


その産駒は2003年生まれがラストクロップとなった。


種牡馬としてのサンデーサイレンス

種牡馬成績


初年度産駒がデビューした翌年の1995年に、2世代のみの産駒だけで日本リーディングサイアーを獲得するという史上初の快挙を成し遂げた。


以後13年連続(1995年~2007年)でリーディングサイアーを保持した。ちなみに地方競馬のリーディングサイアーランキングでは2002年に6位となった。


中央競馬における通算勝利数、通算重賞勝利数、年間最多勝利数、年間最多獲得賞金、通算クラシック勝利数はいずれも最多記録を保持している。


また、サンデーサイレンスは日本競馬史上初めて牡(ディープインパクト・2005年)・牝(スティルインラブ・2003年)ともに三冠馬を輩出した種牡馬となった。


1999年7月10日にはサンデーセイラが七夕賞を制し、産駒がJRA開催の全競馬場10場の重賞を勝利した。


6頭の東京優駿優勝馬を輩出したが、これは戦前の大種牡馬であるトウルヌソルと並んで最多タイ記録である。ただしJRA賞年度代表馬は2004年にゼンノロブロイが選ばれるまで出ていなかった。

ブルードメアサイアーとしての成績

サンデーサイレンスをブルードメアサイアーに持つ競走馬は1997年に初めて誕生した。


当初は激しい気性がマイナスに作用するとではないかと懸念されていたが、2世代目から重賞優勝馬が、6世代目からGI級競走優勝馬が現れるなど徐々に成績を伸ばし、2007年に初めてリーディングブルードメアサイアーの座を獲得した(中央競馬のみの集計では2006年に初めて獲得)。

サンデーサイレンス系種牡馬の活躍

サンデーサイレンス直仔の種牡馬は日本のリーディングサイアー上位を占める活躍を見せ、その産駒はサンデーサイレンス産駒が優勝できなかったNHKマイルカップ、ジャパンカップダート、中山大障害を含め数々のGI級競走を優勝している。


さらに海外でもシーザリオ(父スペシャルウィーク)がアメリカンオークスインビテーショナルステークスを、デルタブルース(父ダンスインザダーク)がメルボルンカップを勝っている他、フジキセキ、タヤスツヨシ、バブルガムフェローといったシャトル種牡馬の産駒が南半球やドバイのG1優勝馬を輩出。


更に仏国に輸出されたディヴァインライトの子であるナタゴラが、チェヴァリーパークステークスを制してカルティエ賞最優秀2歳牝馬を受賞し、さらに本場英国のクラシック1000ギニーを制するなど、その血は世界的な広がりを見せ始めている。