父の記憶①
私の父親は、愛煙家でお酒の呑めないギャンブルと女と遊びが大好きな人でした。私が11歳の頃に生き別れたまま今どこにいるのか、生きているのかそれすらわからず私の中では、遠い過去と消えてしまった人です。父親は店舗の看板や内装を手掛ける職人でした。父は私の4歳上の兄が産まれた一週間後に誰にも言わずに会社を辞め、自営になりました。365日、土日祝関係なく朝から晩までダブルワークをして忙しく働き回る母とは違って仕事をしない父には暇がありそのおかげで私の保育園が休みの週末はいつも父親と2人で出掛けました。行くのはいつも西台のパチンコ屋でした。当時保育園児の私には、ただ休みの日に連れ出してくれる優しい父親という印象しかありませんでした。いつも大体お昼前に家を出て、近所のマクドナルドでチーズバーガーを一つ食べパチンコ屋に行きました。大体いつも父の膝の上か、隣の台に座り、ハンドルに1円玉を挟み、ただ数字が揃うのを待って、眺めていました。当たりの出ない日は、玉拾いに行きました。パチンコを打つおじさん達の足元を這いつくばって、落ちてる玉を拾っては父の元に届けました。何度か店員に見つかって、文字通り首根っこを捕まれて父親が怒られている姿を、申し訳なく見ていた記憶があります。私が座る台で当たりが出た日は、とても褒めてくれました。どこの誰かもわからないパチンコ仲間に「娘がやったよ」と自慢してくれました。当時4、5歳の私は、褒められることに満足していました。稼ぎがあった日は、いつも帰りに駄菓子屋に連れて行ってくれました。200円分好きなお菓子を買ってくれました。時には、家に帰る前に回転寿司に連れて行ってくれました。嬉しいはずなのに、私はいつも食が進まず、喜んだフリをし無理矢理口に運んでは、トイレで嘔吐していました。子どもながらに、何かがストレスだったんだと思います。なぜかパチンコ屋に連れて行ってもらえない日もあってそんな日は同じ西台にある父の実家に朝から晩まで預けられました。もちろん、母親には一緒に遊んできたと嘘をつくようにと口裏合わせをしました。そんな日はいつも父方の祖母が近所のダイエーに連れ出してくれました。ダイエーのゲームコーナーで100円のガチャガチャを2回するのが、唯一の楽しみでした。日が沈むころ、父が迎えにくるまで見たくもないテレビを祖母の家で何時間もじーっと見つめていたのを覚えています。父は仕事と言って家を出てはパチンコ屋、競馬、ボート-レースに出かけました。当然、母の稼ぎだけでは足りず、我が家が火の車状態だったと知ったのは私が中学生になり、両親が離婚した後のことです。離婚が成立したのは私が中学1年生の9月30日でした。なぜ日付まで覚えているのかというと、それまで家庭では一度も笑顔を見せてこなかった母が満面の笑みで、「すべてが終わった」と、清々しく帰ってきた姿が衝撃的だったからです。「ああ、そういうことだったんだ」と子どもながらに全てを悟った気持ちになりました。続く