おはよん~😃✌
もう15年経つんだねん~
ざっくり2万人弱の人が死亡、行方不明になったあの3.11.

あの一週間前に福島のライバル企業に、出張していた。その一週間後に、その会社の社長さんからの電話で、原発から逃れてきた人達が30キロ離れた場所まで避難してきた。でも今日、明日の食べるモノがない。なんとか直ぐにまわしてもらえないか...という電話
3月12日の早朝の電話であった。
3月11日はちょうど新店のオープンで、地震が起きて直ぐに車に、本部スタッフを4人乗せて本社に戻り、各店の状態や在庫状況、水、米、トイレットペーパー等の必需品の手配や、帰宅困難者の布団の手配等してバタバタ。0時少し前に、各幹部の車にパートナーさんや社員を乗せる段取りをして、解散した。
夜中に高尾の山道を歩いている人達がいたので、僕の車に4人乗せた。一番遠い人は、調布から歩いて大月まで帰る途中だった。
それぞれを送ってから帰宅したのが3時半。
うとうとして、それから直ぐに出社。
8時位に本社に着いてからの、電話であった。
緊急に各社の社長や幹部を呼び、これから福島まで行ってくれないか、お願いをした。
『あんたは指示命令するだけだから、そんなことが言えるんだ』
『米軍だって近付かないエリアに、死にに行けと言うのか?』
なるほど、みなさんの言う通りだ。
『わかった。ごめんなさい。僕も行きます。今はニッポンの有事、ボランティアに切り替えます。僕についてきてくれる方がいましたら、お願いします』と、頭を下げた。
その時に、部下の部長が『本部長が行ってしまったら、その後の指揮が取れなくなるので、私が行くので、留まってくれ』と懇願された。
そのやり取りを見ていた各社は、『行きます。行かせて下さい。』
涙が溢れ、泣いた泣いた。
それから荷物の手配、高速の通行許可書を警察に掛け合い、看板車では売名行為になるから、白箱を用意し、レインウエアを全員に着用させ、避難場所の体育館まで行っていただいた。
(疲れきった避難者に喜んでいただいたので、8名の精鋭達は興奮して戻ってきた)
あれから15年
それからやりたかった事があった。
何度か会社に提案したが、それはボランティアであって、収益性が見込めない等の理由で、実現できないでいた。
それから僕自身の転機が何回かあり、15年経ったいま、また違う企業で大手を巻き込み、15年前の案件にチャレンジしている。

あの3.11.でみなさんの知り合いは、何人亡くなったでしょうか?
何人が故郷を失ったでしょうか?
一人ひとりの人生は、一人ひとりのモノですが、生きている人達は、亡くなった方の分まで合わせて、精一杯、一生懸命に『生きていただきたい』と願う今日この頃です。
それぞれの人生に乾杯

LOVE&~😃✌
ではではみなさん
今日もファイトだよん~😃✌