――十七時三十分。
定時を告げる社内チャイムが鳴り響くと同時に、俺は誰からも声をかけられることなく、逃げるように大和精版シール株式会社を飛び出した。
重い足取りで帰宅し、マンションの一階にある集合ポストから、溜まっていたチラシと一緒に数通の郵便物を引き抜いた。
その中に、一通だけ異質な封筒が混ざっていることに気づく。
茶色い無地の封筒。
裏返しても、差出人の住所も名前もどこにも書かれていない、完全な無記名の封筒だった。
大阪市天王寺区にある分譲マンション。
鍵を開けて入った我が家は、静まり返っていた。
「ただいま」
返事はない。靴を脱ぎ、リビングに入った。
妻に退職金の半分を渡して離婚したのは3年前。
いつも置いてある妻の化粧品や、娘の私物がきれいに片付けられていたあの日のことを思い出す。
ガランとしたダイニングテーブルの上に、一枚の紙がぽつんと置かれていた。
緑色の枠線。上部に書かれた「離婚届」の四文字。
妻の欄には、すでにきれいに署名と捺印がされていた。
その横には、引き裂かれた家族写真と、短い手紙。
『あなたの頑固さと、会社一筋で私たちを見ようとしない姿勢には、もう付いていけません。娘と実家に帰ります。書類、書いておいてください』
「……そうか。お前らもか」
乾いた笑いが漏れた。
会社のために家庭を犠牲にしてきた。
すべては家族を養うため、このマンションのローンを払うためだと言い訳をして、妻の寂しさからも、娘の成長からも目を背けてきた。
その結果がこれだ。
会社からはハラスメントだと煙たがられて放り出され、家庭からは完全に捨てられた。
俺の六十二年の人生は、一体何だったんだ。
誰も俺を必要していない。明日から、何のために目を覚まし、どうやって生きていけばいいのか、本当に何もわからなくなってしまった。
ただ、自分がこの世から消えてしまいたいような、底気味の悪い虚無感が押し寄せてくる。
リビングの床に座り込み、俺はスーツのネクタイを乱暴に引きちぎって、コンビニで買ってきたビールのロング缶を一気に煽った。
アルコールが胃を激しく灼く。
二缶、三缶と空き缶が転がり、ガラン、と虚しい音がリビングに響いた。
泥酔し、焦点の定まらない視線の先に、床に放り出したあの無記名の茶封筒が留まった。
現実から逃げるように、俺はそれを乱暴に破り、中の白い便箋を引き出した。
そこに並んでいたのは、印刷された文字ではなく、どこか見覚えのある、少し丸っこい手書きの文字だった。