📖 前回のあらすじ

昭和51年の「平岡の街」へと帰ってきた健一。2016年に見送ったはずの母親と50年ぶりに再会し、出汁の匂いと割烹着姿の温もりに胸を熱くさせるのだった――。


【第15話】親父の背中と機械油の匂い


ティレルのF1筆箱をランドセルから取り出し、自分の部屋の小さな学習机に置く。ポケットから出したあの招待状をじっと眺めていると、外から聞き慣れた音が響いた。

キィィィ……

油の切れた、自転車のブレーキの音。

窓から下を覗くと、泥除けのついた実用車(自転車)を器用に操り、作業着を着たまま敷地へ入ってくる男の姿が見えた。親父だ。

2016年にこの世を去った親父。晩年は病床で痩せ細り、小さくなっていたあの親父が、今は40代前半の、肉体の詰まったがっしりとした体躯でそこに立っている。

ガラガラと玄関の引き戸が開く音がして、

「おーう、今帰ったぞ」

という、少しハスキーで気さくな親父の声が1階に響いた。

俺は吸い寄せられるように部屋を出て、トントンと階段を駆け下りた。

親父はいつものように、玄関からそのまま洗面所へ向かっていた。町工場での一日の仕事を終え、ホーローの洗面台に向かって、固形石鹸をゴシゴシと泡立てている。

「♪私バカよね〜お馬鹿さんよね〜……っと」

ご機嫌な様子で、当時大ヒットしていた『心のこり』を鼻歌で口ずさみながら、爪に入った黒い機械油を洗っている親父の背中。

「……お父さん、お帰り」

背中に向かってそう声をかけると、親父の鼻歌と手が、ピタッと止まった。

親父は少し驚いたように、肩越しにこちらを振り返った。

「おっ……おう」

親父の目が丸くなっている。それもそうだ。

当時の12歳の健一は、ちょうど反抗期に入りかけの難しい年頃だった。普段なら親父が帰ってきても自分の部屋にこもったままで、顔を合わせてもせいぜい「……ん」とぶっきらぼうに返すのが関の山だったのだ。

それがわざわざ階段を降りてきて、顔を見て「お帰り」なんて言ったのだから、親父にしてみれば狐につままれたような気分だろう。

親父はきょとんとした顔のまま、タオルの上でごわついた大きな手を拭き、それから少し照れくさそうに頭を掻いた。

「なんや健一、今日は機嫌ええな。学校でなんかええことでもあったんか?」

「いや……別に。普通や」

俺は慌てて当時の「ぶっきらぼうな12歳」のトーンを取り繕ったが、胸の奥はさっきから熱いままだ。

まだ髪も黒々と太く、日焼けした顔に深いシワもない親父。その元気な姿が目の前にあるだけで、涙が溢れそうになるのを必死にこらえた――。