一番、最初の記憶は、幼稚園の頃だっただろうか。
社宅から幼稚園まで集団で、歩いて登校していた。毎日、複数の親が集団の
引率を交代で行いながらの登校だったが、私はこの幼稚園で、いじめられていた
よう記憶している。なぜ、いじめられていたかわからないが、他人を攻撃したり
嫌がらせの類をしているわけでもなく、威張ってもおらず、おとなしくしていただけなのに
仲間外れにされ、追い掛け回され、毎日、毎日、何度も何度も泣いていた。
キリスト教の幼稚園だったので、教会が幼稚園の中にあり、そこにあるマリア像が
なぜか心の癒しになった。いじめられ、泣いて、教会に行き、先生に慰められる。
この繰り返しだった。だから、幼稚園の頃、良い思い出は全くない。
私の息子である君が、そう、ここではK君と呼んでおこう。
K君が保育園に入る時、私は、保育園の先生に、何度も、いじめはないのか?
繰り返し聞いた。いじめがあったときはどう対処してくれるのか?
本当に心配で何度も聞いた。
結局、私の心配は取り越し苦労で終わり、Kは、毎日、喜んで、保育園に
行っていたと思う。お遊戯会も、お祭りも、運動会も、全て、楽しみながら
やっていたと思う。K、君は、保育園楽しかったかな?
さて、私は、小学生になる。このころの記憶は、とにかく、親が、スパルタ教育で
そう、幼稚園のころから、いろいろな勉強を教えられたことで、成績は優秀だった。
それも、とびきり優秀だった。多分、学校で一番だったと思う。
そして、幼稚園を卒園する間際から、親に言われて走り込みを毎日、させられた
せいか、足だけは速かった。
小学校には同じ幼稚園からあまり、進学しなかったのか、新しい友達ができた。
頭が良くて、足が速い。これだけで、先生も同級生も一目、おいてくれた。
そして、すぐに、私はクラスの中心メンバーになっていたと思う。
この頃、父と唯一、楽しかった遊びを思い出した。広大な社宅の敷地の中で
父が車の運転を一緒にさせてくれたことだった。実際には、アクセルもブレーキも
ギアチェンジも父が行っていて、私は、父を背中に運転席に座り、ただ、ハンドルだけを
動かしていたのだが、車の運転が怖いのと同時に、未知の体験として楽しかった。
一方、教育ママであった母は、相変わらず、厳しく勉強を強要し、
母と一緒にいるのが非常に苦痛だった。食事の作法も厳しく、食べる順番、残さず食べる、
箸の使い方、茶碗の持ち方などは特に注意を何度も受けた。また、食事中にテレビを
見ることも禁止され、土曜日以外は毎日20時に就寝するようしつけられていた。
同じ社宅で同じ学年の男の子とけんかで負けて帰ってきたら、母は、勝つまで帰ってくるな
と言い、鍵を締め、家を追い出されたこともあった。しかし、何度やっても喧嘩には勝てないものだから
このまま、家出をしようと多摩川を延々と歩き、暗くなったきて、さみしくなり
なぜか帰りたくない家に帰ったこともあった。
そんな時だった。4歳年の離れた弟がヘルニアで緊急入院することになった。今考えれば、
単純な手術だが、母は祖父に頼んで、大学病院に弟を入院させ、手術を行い、病院に
寝泊まりすることで、1週間~10日位、家を空けたことがあった。
普通の子供なら、母親がいないことで、さみしくなるのだろうが、私は、厳しい母が
1週間以上もいないことが、とてもうれしかった。
そういえば、この時、父とベットで一緒に寝た記憶があるが、母がいなくてさみしかったのは
私ではなく父だったのかもしれない。それで、私と一緒にベットで寝たのではないかと
今となっては思う。
母がいない快適な日々が終わると、また、いつもと変わらない日常が戻ってきた。
こうして、文章にしていくと、記憶から消えていた様々なことが思い出されるから不思議だ。
息子に自分のことを知ってもらい、自分と同じ過ちはしてほしくない、自分のように
不幸になってほしくはないと思って書き始めたのに、自分自身がいろいろと考えることが
多くなる。
一人で電車に乗り始めたのもこの頃だった。後楽園で巨人戦を見るために新宿まで
一人で電車に乗り、新宿から父と一緒に水道橋まで行く。野球少年ではなかったが、
長嶋監督時代の巨人を皆が応援していた。父の会社が年間契約しているBOXシートは
1塁とホームの間で前から数列目の特等席だった。楽しい思い出をまた、一つ思い出した。
そういえば、初恋をしたのもこのころだったと思う。小学校3年か4年生の時で
同じクラスの髪の毛の長い子だった。名前も憶えている。いつだったか、クラスで席替えがあり
その前に先生が、隣に座ってほしい人の名前を書きなさいと言った。私は、彼女の名前を
書いたら、見事、そのあとの席替えで、私は彼女の隣の席になった。
K君、君の初恋はいつなのかな?もう、初恋があったのかな?
厳しい母のもと、窮屈な思いをしながらも学校生活を満喫していた私は、ある日、父の車に
家族全員乗せられ、東京のさらに西部に夕刻~夜にかけて連れて行かれた。
今、記憶しているのは、高速のインターチェンジを降りたところにポルシェの販売店があったこと。
当時はスーパーカーブームだったので、ポルシェがあったことははっきりと覚えている。
私達、家族が向かった先は、ポルシェでの販売店はなく、住宅だけが密集している、
インターチェンジから車で20分ほどの更地だった。
そう、その更地の上に立つ一軒家を父は20年位のローンで購入したのだ。
小学校4年の夏休み。慣れ親しんだ小学校を後にし、新天地へ引っ越しを行った。