今、司馬遼太郎さんの『関ヶ原』をゆるゆる読んでおりますが、自分と石田治部少輔と重ねます。
謀略の限りを尽して人を陥れることはしませんが、裏を知ることをしたり情報をさりげなく集めて必要としている人に知らせたり、嫌いな人間を観察して動向をさぐったりすることはよくしていました。
治部少輔のように頭の回転は当然早くなく愚鈍でのろのろしていますが、性格的にはよく似ている(暗い部分)のではないか、と思います。
ですから、もし筑前(秀吉)亡き後、どう振る舞うか。
加藤、福島、黒田、浅野、細川の諸将に大いに嫌われ、憎まれている中でその上徳川内大臣が控えています。
策を巡らせば巡らすほどに後々自分の首を絞めることになります。
これは今だからこそいえますが、ですが今だからこそ自身が治部少輔の立場、五奉行格だったら、身を引き佐和山領を豊家に返上し、官位も辞退して比叡山に秀吉公の弔いをこれからいたしとうござるゆえ、と申し上げて剃髪して身を引いた方が良いような気がします。
豊家要の武将同士が争って喜ぶのは誰かー
間違いなく徳川内大臣ですから、先ず争いの元凶たる治部少輔が世捨て人になっても、智は大谷刑部卿吉継、細川幽斎・忠興親子、黒田如水・長政親子、小西行長など、武は加藤主計頭清正、福島左衛門大夫正則などの有能な将は沢山いますから助かったかもしれません。
上杉家、毛利家、眞田家、島津家、宇喜多家など尽力下さる大名家もいますから身を引いても差し障りはないと個人の今の感覚でしたら思います。
無為に義、正義を慮って徳川内大臣に戦を挑んでも勝ち目がなく、まして人望がなさ過ぎて毛利中納言輝元を立てても治部少輔が居る、というだけで嫌だと思う将が大半だと考えなかったのでしょうか。
無為に争って豊家の力を削いでしまうことになる、と石田治部少輔は思わなかったのでしょうか……。
「自分さえ居なくなれば、争いは済む。徳川内府も持って十数年の寿命なれば時を待てば良いのではないか。
自然寿命が尽きるを待てば、あるいは好機が巡るやも知れぬ。
主計頭、左衛門大夫、越中らは内府と通じておる。
拙者を亡き者にしたいであろう。よしんば拙者が死んだところで豊家の立ち位置はますます芳しくない方に進むであろう。
されば、一旦豊家から去ってはいかがであろうか、のう、左近。
そなたは今身体が不自由で難儀しておる大谷刑部の元に参じて、力になってくれぬか。
時には儂にもその時々を報せてくれぬか。
儂は、叡山に篭ろう。武士を捨てようと思う。
それが豊家の御為になる日が必ず来るはずである。」
こう判断できたら、実際どうなっていたでしょうか。
幾ら、亡き太閤の御為に奮起しても果たして自分の為に本当に尽くしてくれる、付いてきてくれる将はあろうかと深く考えなかったのかと思います。
政局を乱すより、身を引いて比叡山に篭った方が為ではないか、と個人がもし治部少輔だったらそのようにします。
それが不可能でしたら、剃髪して隠居して一切身を引いて寺に蟄居謹慎します。
時をひたすら稼いで、徳川内府の寿命の尽きるをただ静観して待つようにします。
互いに争って、互いに自分たちの正義を称しても全く世の中は良くなることはありません。
第3の道としてなにもかも捨ててしまうのが良いと個人は思います。