練乳やタルタルソースを直に舐めて、スコールのフルーツミックス味を糧にしている日々……。








スコールのフルーツミックス味はもう発売されていないのでしょうか。とても気に入っております。

以前誤って4箱も購入してしまいましたので在庫が当家にはございます。




これらだけでも意外と個人は十分やっていけます。

身体に負担がかからぬように配慮するようにしていますが、糖を摂るということは、実は決して身体にはよくなく、替わりに固形物を入れないようにして内臓を労っているつもりですが、練乳やジュースは過ぎれば負担になり血液を汚すことになるでしょう。


さて、今日、ローソンさんの以前お気に入りだった豚肉の生姜焼きお弁当を、すみません、賀状作成が終了したので自身の労いとしていただきたくなり購入しました。


とても美味でしたが、不思議なことにあまり食べなくなった身の上でそれほど身体は食べ物を欲していないことがなんとなく感じられました。

美味と書きましたが、以前のように美味しいという強い感じは受けず、淡々といただきました。
余分に手巻き型のマグロのたたきのおにぎりは少し味に違和感を感じ身体が受け付けていないようにすら感じました。



嗚呼、食べ物が……もう、手前には不要になったのかしらん……。良いことではないか。


と、感じられましたが不思議な感覚を味わいました。

最近お腹も凹み、顔も締まってきました。エラなどを触ると肉がとれたように感じます。


味覚と空腹が今、変容を遂げようとしているのではないか、と思います。

個人の意識も静けさが支配して、早稲田通りを歩いていても周りの人たちがどうでもよくなって、個人の意識とより深く繋がっているような感覚を覚えたりしています。

本当に大切なのは目に映る世界ではなく、個人個人が意識する世界ではないか、ということも強く訴えてきています。


少食は本当に人類には必要なことかもしれない……。

ここまで大きくはいいませんが、個人は特に少食、不食は死ぬるまで実施しなくてはならないようです。

段階としてはまだまだ序の口ではございますが、食べ物に対して命の代償になっている、ということが感じられて以来慎むことを強要されたかのようであり、今まで通りの食生活では個人の身体がもたぬことは理解しておりました。


単なるダイエット、ではなく更に深いものの見方をする、それは動植物が犠牲になって人間の食べ物になっていることを僭越ながら悟らされたようになり、食を慎むことがより良く生きるために必要なことであり、当たり前ではなかろうか、と思われました。


人様が食を楽しむ、あるいは個人が色々提供することは構いません。それは地球からのギフトだからです。しかし、ここに至って、個人が貪ることはもう卒業しなくてはならない段階に入った、といえそうです。

今日はお弁当をいただきましたし、気が緩んで文字が汚くなりましたので少し寝て深夜にまた手紙を書こうと思います。