最近の自身の課題、虞世南(ぐせいなん)の「孔子廟堂碑」を時折裏紙に練習しています。
この古典は難しい……です。一筋縄ではなく、線の表情が実に豊かでそれが一層難解にしています。
加えて、後世明の時代でしたか、再度復刻した、と伝わっておりますから、線が太い部分、オリジナルの部分があるようで、迷いが生じて、つかみどころがないようなところがあり、避けたいようなところです。
しかし、個人はそれでも虞世南の後世に伝わるお人柄、書の才能を偲びて少しでもあやかりたく、長く目習いして、最近は裏紙に真っ黒になるまで、「孔子廟堂碑」の線質を自分ながらに少しずつ学びました。
形を追求したくて、ぎこちなくなりましたが楷書がこれだけなんとか書けるようになったと思います。恥ずかしいですが記録のために貼り付けておきます。
形にこだわりすぎて汚くなった字があります。写真で見るとそれがよく分かります。これから更に研鑽しなくてはなりません。
次いで、「孔子廟堂碑」を踏まえた上で創作しました。
なぜ、「孔子廟堂碑」に執着するのか
昨今、特に自身の地元だった県の書展で、楷書の作品がなく、すみません私はそれ以下ですが、なんとなく行草体で「ごまかして」いるかのように思われたからです。師風の真似ばかりが沢山並ぶ書展。
楷書が一点もない書展とは……とレベルの低さを正直感じましたし、中央書壇の先生方の真似事ばかりで本当の実力があるのだろうか(確かによく書けている、よい墨色が出ていると感じる作品はありましたが)、と側から見て感じました。
書で食べる……ことがこのレベル、格好つけて申し上げれば芸術の品位を下げることになりはしないかと個人は思われて、なんともいえない気分になります。
以前、こちらで取り上げた中島司有先生が「臨書で終わってもよいのではないか」というお言葉を遺されていますが、そこまでの境地にまでは到底到達していないものの、「孔子廟堂碑」を前にして自身が臨書してふと臨書だけで終わってもよい、というのは本当にあり得るのではないかとふとよぎった次第です。
特に個人の場合、1人で練習してどこの社中にも属していませんから作品らしい作品は公には披露しませんし、先ず練習することが大切にしています。
古典と向き合って、日々筆と親しむことが目的で、お金儲けは全く考えられません。お金儲けに走り出すと恥をかくことになり、嘘をつくことになりそうで嫌です。
楷書10年と申します。これからも古典を目習いして臨書して書を愉しみたいと思います。