昔学校で色々人格的に嫌な印象を受けたり、遠慮や慎みがなく鬱陶しさを感じたり、虐めを施したりしていた人間が今は結婚して人の親となってフェイスブック等のSNSで自分の愛の子の写真をアップしています。先般からこのことは書いております。
誰でも我が子はかわいい、愛おしいでしょう。
それが若い頃他の子を虐めて馬鹿にして、いたぶっていたことは、果たして消せるものなのでしょうか……。
その個人が人間的に嫌な印象しかない者らが幸せな生活を手にして “子を授かり、人の親となりなる”……。
外面的な考えをすると、ご都合主義も良いところだと思いました。
他に原因を求めてはいませんが……自身は今まで散々働いてきて、怒鳴り散らされて、恩恵を受けることなく、人からの引き立てもなく、蠢いて生きてきて、全く晴れるような報われるようなことは極めて少ないような気がします……。
感謝が今少ないのでこのようなことを書いているのだと思いますが書かせてください。気持ちを切り替えるために!
いつも、いつも貧乏くじを引かされて、引いて……。
こいつにやらせておけば良かろう……
嗚呼、私がやらないとなぁ……
この言葉が社会人になってからどれだれ反芻して実行されたことでしょう。
全く負の連鎖の中にいるような、フェイスブック(辞める、といいつつ未だ仇がいますから少し探索しておりました)を閲覧するにつけ、世の中の諸行無常を感じました。物質的な物の見方をしますと左様です。
虐めをしたり、人を見下したりしていた、横暴無謀・緩慢外道な人間たちがマイホームを建てて、伴侶がいて、お子さんらがいる……。
昔を清算することはないのか? という他人から見た私の目線ですが、そのように移りました。
強がりを書きますが、それで所謂人並みの幸せの中に彼ら虐めっ子は存在しています。
しかし、人並みの幸せを得ている……ということはそれ以上でもない存在ではないか、と思いました。支配された子羊たち……ということです。
普通の家庭を営む……
強がりですが、これに魅力を個人は感じません。
社畜となって、飼いならされて、他を全く顧みず、地球環境を意識せず、ただ個人とその家族の安寧だけを願う、年中お金がない、お金がないという(本当はあるのに)……。それは確かに尊い生き方ですが、仇にその姿を見ると正直反吐が出ます。
しかし、彼らの今の幸せは、神仏のお許しがあればこその日々の恩恵ではないか……と。
世の中、言ったもの勝ちなのでしょうか。私のように沈黙を貫くような者は……端にやられがちなのでしょう。
フェイスブックで仇に関わって、と申しますか少し名前を見て閲覧しただけで気分が悪くなりました。
慎めよ、というメッセージなのだと思います。
友だちは実際には皆無ですし、無意味なやりとりをすることは時間の無駄ですし……。
左様、出会い系もかわいらしい女性(にょしょう)はいますが、閲覧するだけで関わりたい気持ちは日に日に衰えていきますし……。
心中が静寂になっていって、幸せなのかもしれません……。