一大スペクタクル、痛快無比、ダイナミック……。

司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』をようやく昨日読了いたしました。


4巻の半分まで確か今年のお正月休み、さらに遡って昨年のお盆休みに読んで、あまり気持ちが進まず放置しておりました。

しかし、4巻の清河八郎と京都で会って江戸まで密航する旅をして、千葉貞吉の道場に再び厄介になってから勝安房守を千葉重太郎と斬りに行く箇所あたりから盛り上がり、この4月の週末は暇を利用して2巻ずつ読み進み大変な読み応えで楽しみました。

圧倒的な行動力、誰をも思いつかない発想、人としての魅力……。これはあくまで司馬遼太郎さんが描く坂本竜馬像ですが、武田鉄矢さんが強烈に私淑されていらっしゃる理由が改めて分かったような気がします。

日本改造の8部まで見届けて、天命を全うされた訳ですが仕事は確かにやり終え志を遂げた、という見方ができます。しかし、なんとも惜しい……と私ならず『竜馬がゆく』を読まれた方々は思われるはずです。年齢的にも若いですからね。

個人もその余韻に浸って、(暇に任せて)なぜ俺が俺がと手柄を独り占めしない、国を想って奔走している大人物が暗殺されなくてはならないのかと。

ご本の中にも、その人を天誅と称して殺してもなんにも解決しないという旨がありましたが、確かに左様だと思いました。

まして、坂本竜馬、中岡慎太郎の両士は特に日本の宝ともいうべき存在でありポスト徳川家の構想を深く具体的に練っていた人物でひとえに幕府を潰すことに終始していたわけではありませんから、明治維新後の政府の構造をもっと彼らが密に関わればあるいは早く選挙制度が生まれていたのかもしれませんし、あるいは、欧米の、今日までロスチャイルドが深く絡みつくようなしがらみから解放させてくれるような策を打ち出すことができたかもしれません……。


人を殺してもなんにもならない、ということは今でこそ日々おかげさまで平和で豊かな生活を送ることができるようになりましたが、人心の荒ようたるは……幕末の風雲と変わらないのではないか、否、むしろ人の程度は幕末よりもさらに悪く、二極化、勝ち組・負け組、経済格差の拡大などが人の世界に横たわっていて、全く空虚であぶれた時代と個人は思います。


『竜馬がゆく』を読んで静かに感化されましたが、では個人も今日から志士活動をする、というのではなく物を見る目を養う、といいますか、肚を大きく持なくてはならないと思った次第です。

坂本竜馬は土佐、薩摩、長州という意識ではなく“日本人”という見識(それは勝安房守も同様でしょう)から仕事をされましたが、今ですと“地球人”という見識から物事を弘通するようなビジネスがあればと小さい小さい個人は思っています。

ですから無用ないじめ、争いは無意味で人を活かす術があり、適材適所ー今、引きこもり、ニートが多い無気力な時代になりましたが、彼らをもきっとコンピュータなどが優れて出来て在宅ワークなどもっと世の中に普及すれば良いのに……と考えています。

地球の環境が荒み、人心も腐れてきている……。多くは外面の世界に生きることに懸命で社会的環境的な問題には目もくれないという人が大半でしょう。

その虚しい社会の中で『竜馬がゆく』に触れたことができたのは全く個人にとっては幸運でした。

長くなりますからまた改めて取り上げたいと思います。