指揮者のお話ついでにマタチッチさんのことも書いておきます。
1965年の初客演からNHK交響楽団に客演を始めましたが以来、相思相愛の仲となりました。2回目の客演の折は名誉指揮者の称号まで与えられています。
当時N響の副理事長を務めていた有馬大五郎さんと旧知の仲だったそうでそれがご縁で客演するようになったとご本にありました。
マタチッチさんのエピソードがふんだんに描かれてありました。
初顔合わせの折、渋い顔をしてオーケストラに立ち、音が出るなり、なんてよい音がするオーケストラなんだ、といって破顔一笑したそうです。
以来、楽団員さんたちともうち解けてマタ公、などといって気の置けない仲になったそうです。常にアルコールを持っていたそうでとても気さくな楽しいおじさんという印象を感じました。江戸っ子の気質が多分にあったのではないかと推測します。
女性のお付き合いの方は何人もいたそうですが本妻さんはおっかない人だった(お若いころナチスシンパで収容所送りとなり、処刑される寸前にピアノが弾けるということで所長に助けて貰いました。その娘さんが奥様でした)そうです。
N響の裏方の人たちも奥様に合わせるのが大変だったそうです。
そんな愛すべきマタチッチさんは60年代N響を支えた方でしたが70年代から最後の来日になる84年までは共演する機会が減りました。有馬大五郎さんがNHK交響楽団から離れたりして声を掛けてもらえなかったことが原因といわれていますがズボラもよいところです。例によってうるさい奥様のせいともいわれています。
音楽はガツンとストレートな感じがしてまるで無法松のような野太い音楽が持ち味で聞いていて熱くなります。
カラヤンには仕事を与えてもらって恩義を感じていたそうですが、カラヤンのはムード音楽だ、といって批判していたそうです。
また細かい表情を丁寧に楽団員さんに指示していくリハーサル風景がカップリングされています。
最後にあなた方のおかげでよい演奏でした、ありがとうという旨を仰っていたことが印象に残っています。
N響との最後の演奏会は、今でも語り草になっています。やっとの思いで来日して歩行困難ぎみで指揮棒を持てなくなった中でも音楽は熱く迸ります。
人間的もまた指揮者としてもとても素晴らしい方だったマタチッチさんに日本とご縁があってよかったと思います。