今月、久方ぶりに手元不如意で汲々しました。しかし、昨日、ないないの思考から解脱したかのように楽になりました。
ないならないで構わない
と少し達観できたような面持ちになりました。開き直りかもしれません。
お金は回っていますし、お金そのものは人間が勝手に拵えたもので、動植物の存在のようにコントロールできないものではないことを少しだけ意識できたからです。
各保険料に搾り取られる、税金で搾取される、家族に搾り取られる……。
多々あるかと存じますが、個人の場合回してやればよいと思うようになりました。しかし、自分が搾取する側には決して回らないようにしたいと念頭に置いております。
光熱費で持っていかれても、各保険料で持っていかれても、税金で持っていかれても……社会に存在する以上はお金を回してやる必要があると少し偉い目線で思うようになりました。極端にならないくらいだったら幾らでもどうぞ(お金は回っていますから)、くらいの気持ちです。
私は道楽(クラシック音楽のCD、書道用具、ご本等に費やしてすってんてんに近いです)モノで説得力が皆無です。ケチケチしないで活きるようにとお金をふんだんにつかいますが、将来金銭的に不安はまったくございません。空回りしているかもしれませんが。
今日、パン屋さんで小さなクロワッサンを200円で詰め放題というイベントをされていて、おばちゃんがぎゅうぎゅうにしているお姿を拝見して、恐らく私よりも貯金はしているであろうそのご婦人は……使うこと、減ることの恐怖があるから詰め放題に参加されたと思われました。少し無愛想な雰囲気を感じました。
本当に裕福な人は先ず、詰め放題など参加する気にならないと思います。私も窮していると認識してはいませんから全く悠々とカレーフランクパンの出来立てを頂戴して参りました。
このような感覚ですから一般的な認識とは全くずれて合いません。非常識ですが構いません。
詰め放題をしてそのご家族はよろしいかもしれませんが、短絡的な感じがしてバーゲンやら目ざとく安い、安いに目を向けるのはどうか、人間性までだだ下がりになるような気がいたしました。すみません。
さて、出し渋ってケチケチして自分だけが金銭的に余裕があってとしても楽しくありません。
仮に第1次大戦後のドイツのマルクの価値を鑑みれば(実際には円の価値が極端に下がることはないでしょう)、お金の存在意義かどのようなものか分かるかと存じます。
パン1個に250万マルクでしたか、それくらいの値段がつきました。
その後にヒトラー総統閣下の台頭に繋がるわけですが、人間がお金をコントロールしていることが分かると思います。
自然とともに有る、有限なものと思いがちですまやかしです。
そのように思わして我々を支配して人間の可能性を狭めている得体の知れないなにか、があることを知っていた方がためではないかと思われます。
ですから1つ、怖いもの減った気がします。お金にとらわれすぎる思考は止めます。
そして、段階がありますが個人1人がたくさん儲けることを思考するのではなく、よりニュートラルな状態、均衡を保つ世になるように思考します。
幾らたくさんあっても社会によい循環を作らなければ同じではないでしょうか。
持ってる、持ってる、稼いでいる、……。そこから先は、果たしてよい循環を産み出す、恒心・恒産を産み出す源になるように心遣いをされていますか。
それとも自分がたくさん儲けて終わりですか。
よくよくお金の存在意義を突き詰めると……循環させるための道具であること、人がお金、ものの主人でコントロールすべき権限があることが分かります。
なにをいいたいのかよく分からない内容になりました。