卑しい心の持ち主とお思いくださってご覧ください。

こちらで再三自分の内側云々と書いて意識して生きていますがそれでも映ずる外側の世界と……。
 
依存もすれば悪い意味で意識してそれとともに生きていますが、やはりくたびれてしまいます。

こちらのブログ内のやりとりではなく、実生活でのやりとりで。

枇杷のシーズンが始まり当地では収穫がちらほらされていますが、毎年少しお送りしますが、それをも……。

与えなさい、与えなさいと主は仰いますが……。私ばかりが気張って……という……。

見返りは期待していませんが、どうも暑くなってきて先々週の出来事と重なり、労力も時間も提供してさらにお金も気遣いも提供して、根腐れはしていませんが、それでも感謝してという、自らを拷問しているのと内側に問いたいくらいです。

天国におはします人は…………長い箸を駆使していると聞きます。与えて、与えて当たり前であるという、黄金律がベースにあるということです。

与える側になりなさいという話ですが、毎年、毎年賀状、かもめーる、枇杷、お中元、お歳暮、お誕生日、その他気遣い……。いくらしても追っつかない!です。まるで1人で芝居をしているかのようです……。

こんなことを書いているのは感謝がなく愚かだからでしょう、か。

気配り 心配りはしてくだされよ

と宗教界の怪物、出口王仁三郎師の『御筆先』にあるそうですが、絞りカスみたいになってしまいまして気力が……。それでも明日はまた来ますから……。

宗教や心の学問を修めている人、決してこちらのブログ内の方々ではありませんが、本当に、本当に天国にいらっしゃるの? あるいは世の中に為になっていますか? と思う時が失礼ながらあります。

自分可愛いらしさ

それだけではないのか、と。今日は書かせてください。

心の学問を修めている自分は偉い

聖書を知っている自分が素晴らしい

宗教心を持つ己は救われる

私にご縁のある方々に少なからずその臭いがして……。実際困っている人に対して労力もお金も時間も使わない。お説教を垂れるしかないという現実が私の醜さに比して現実に写ります。

はっきりいって左様なことは天国的ではないのではないかと反発します。実際なにか今日はあって書いている、批判しているのではありません。

学びはすれど、実際労をとらぬという愚についていけない、ということと幾ら与えたところで……という悲しさに向き合いながら毎日毎日自身の狭量たる愚かさのなかで生きているということを書いています。

人に意識を向けないで内側に……。するとまた、それでも枇杷を今年も送らせていただくべきだと……。

しかし、人との距離は遠く、ますますコミュニケーション能力をなくしてしまう危惧と向き合わなくてはならないようで混乱しています。