今日はもうやめます。あとはペタをつけさせていただいて参ります。少しでもお習字できたのでよかったと思います。

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風、散る

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迷う

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慈悲

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内省

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入滅

やぶれかぶれですが、意外と自分らしさが出ている作品かもしれません。しかし、作品といっても乾かして練習用の紙になりますから作品とはいい難いかもしれません。

また明日……気持が向けば臨書、試作していきたいですがまだ分かりません。

墨色が少しずつよくなってきていることも忘れないように書いておきます。


硯自慢ではありませんがやはりある程度の硯は必要だと素人ながら感じました。決して高い硯を所持していませんがせめてある程度の硯が手元にあった方がよいと改めて今回の試作で思われました。

古墨を求める方もありますがそれ以上に硯いかんでなんとでもなるような……。 

淡墨の作り方も自然にできるようになると思われます。

しかし、書家になりたい訳ではないのに、趣味の領域ですが今ひとつ書を専門にするには疑問がありますし暗中模索のなかで1人、向き合いながら思案しています。爆弾発言しますと

書を専門にすればよい作品、自分が納得できる表現は今の書の世界ではできない

ということです。個性的ということより和が大切な書の世界。その中では個性などあってないようなみんなで手を繋いで渡っているのが書で営んでいる方々の世界です。出来レースは当たり前です……。

だから、書は専門にできません。認められなくてもよいのです。普段書いている文字そのものが大切ですし、必ずしも書は絵画的な芸術的な要素とは違い、誰もが字を書く動作を無理やり昇華してビジネスにしたような感覚を今日、先日こちらでコメントをいただきそこで「井上有一の書は芸術」とあり、ふと書に対する感覚を思い出させてくださいました。

もっと当たり前に漢字圏内の人びとには当たり前に持っている美意識、これを悪い意味でビジネスにしている人がいる……。

ですから専門にする必要は必ずしもありません。こちらで自己満足で終わっても構わないくらいです。

常に書くことに関する美意識は内側にあるー例によって内側の話ですがこれに尽きます。