神様は自身の中に在るーいつであろう。この認識をしたのは。皆さんの自身の中に厳然としておわします内神様。よく田宮陽子先生のブログにも出てくる言葉ではないだろうか。

そこでだが、この思想は日本独特のものではないかと。キリスト教圏ではイエス キリストが現人神の存在なので、やはり外に神聖さがあるという思考が黙って存在しているのだろうか。

しかし、これは新興宗教も内神様、生宮(いくみや)と称して認めてはいるが拝む対象があるから少し様相を違えると思うがいかがか。

財産をうんと献金しないとダメ、人をお導きしないとダメ、お宅に神様をお祭りしないとダメ。縄文時代よりあったとされる自然信仰、八百万信仰とは明らかに異にする感じだ。否定はしないが。出口王仁三郎師にしても、岡田茂吉師にしても大いに優れた神様のような方だった、といっても良いと思うが、拝金主義と信者の本性はどうにかならないかと思う。

後者の信者の本性とは、少し憤慨しているので記すが彼らの中には定めし、世の中の為と無私の精神を貫き日々人知れず活動、救世されていらっしゃると思う。しかし、大半はその宗教の神様、先生方に救われたい一心なんだと感ずる。他人が苦しんでいても物質的な援助は先ず皆無ではないか。何かあれば「祈っておきますからね」。確かに何もしないよりはましだが平生神様とのご縁が強い信者が今更祈っても、……。結局何もしたくないのだろうと。

私はそれが見えて信者たちの大半が偽善に見えて嫌いになった。確かに出口王仁三郎師、岡田茂吉師の御著書は読み応えがあって素晴らしいが、信者はその大志を継ぐべく世に奉仕させてもらうのが勤めにもかかわらず、所詮は自分可愛さに過ぎないと私の目には写った。

自分とその家族の安寧、幸福の為だけの献金と活動。他人の苦しみは全く意に介さないようにみえて反吐が出る、地獄の糞壺にしかず。言い過ぎだろうか。彼らから出口王仁三郎師、岡田茂吉師を感じ取れはしない。申し訳ないが。

結局、信仰しても苦しい、悲しい、お金がない、寂しい。こちらにフォーカスしているから全く人様を導くとは笑止千万ではないか。自身を差し置いて全く尽くすことは彼らにはできないのが現状で、所詮は俗物なのだと思う。

厳しいことを申し上げたが、すっきりした。