請雨経法(しょううきょうほう)

神泉苑での雨乞い祈祷

[以下引用]

桓武天皇が、平安京造営に当たり設けた苑地「神泉苑」。
京都市中京区にあります。
かつては、南北四町東西二町という広大なものでした。
その大きさは、現在の神泉苑の十五倍。
そう考えると、かなりの大きさだった事が想像できます。

さて、その神泉苑ですが、祈雨の地として有名です。
多くの名僧が競って祈雨修法を行いました。
なぜ、神泉苑で祈雨を行うようになったのでしょう?
それには、次のような理由があります。
◎雨乞い祈祷
 平安時代の神泉苑は雨乞いの霊池として知られていた。中でも有名な話として、今昔物語(12世紀初頭刊という)に『弘法大師 請雨経法を修して雨を降らせたる事』との一章がある(14巻・41話)。簡単に意訳すれば、
 「今は昔、○○天皇の御世に、天下旱魃(カンバツ)して天皇以下人民に至るまで嘆き悲しんだ。
 その時、弘法大師・空海という人がいた。天皇が大師を招いて『この旱魃を止めて雨を降らせ、世を助ける法はないか』と問うたところ、大師は『吾に降雨の法有り』と答えた。
 天皇の『その法を修すべし』との勅をうけて、大師が神泉苑にて7日間にわたって請雨経法を修したら、壇の右に五尺ばかりの金色の蛇が現れた。
 しかし、この蛇は常人には見えず、修行を積んだ伴僧4人のみにしか見えなかった。その伴僧の一人が、『蛇が現れたのはいかなる相か』と問うと、大師は『此は天竺(インド)にある阿耨達智池(アクノダツチ池)に住む善如竜王(ゼンニョリュウオウ)である。その竜王がこの池にやってきたのだから、修法の験(シルシ)が顕れるであろう』と答えた。
 そうしているうちに、俄に空が陰って戌亥の方角から雲が湧き出で、国中に雨が降り出し、旱魃が止んだ。
 此より後、天下旱魃の時には、大師の流れをうけて、この法を伝える人が、神泉苑にてこの法を修すれば必ず雨が降る、と伝えられている」
という。他にも、高野大師行状図会などに神泉苑での降雨の図会が描かれ、弘法大師関連の年表にも「天長元年、神泉苑にて祈雨法を修す」とあるから、雨乞い 修法をしたのは確かかもしれない。なお弘法大師には、水に困っていた処に清水を湧き出したなど水に係わる伝承が多く伝わり、祈雨修法も生涯51回修したと いう。

空海vs守敏の祈雨対決

淳和天皇の時代、京で日照りが続く時期がありました。
困り果てた末、淳和天皇は空海に祈雨をするように勅命を出します。
空海は、弘法大師の諡号で知られる真言宗の開祖です。

その事を知った一人の僧が、「先に祈雨をさせて下さい。」と願い出ました。
その僧の名前は、守敏。
西寺の名僧で、何度も空海と法力対決をした人物です。

守敏の願いは叶えられ、先に祈雨をする事になりました。
場所は、神泉苑です。
守敏は七日間祈り続けましたが、雨は一向に降りません。

そこで初めの勅命通り、空海の出番となりました。
しかし、空海が祈雨しても雨は全く降りません。
おかしいと思った空海は、心眼を用いて調べてみました。
すると、守敏が雨を降らせる龍を呪力により封じ込めていたのです。

さすがに、空海も困りました。
雨を降らせる龍が、守敏の手の内にあるわけですから。
しかし、よく調べてみると守敏の魔の手から逃れた龍がいたのです。
その龍の名は、善女龍王。
空海は、善女龍王を勧請し、見事雨を降らせました。

空海が天変地異を修法で鎮めた


天長元年(824)、畿内で春の大旱魃が発生し、時の淳和天皇は、旱魃に見舞われていた地域を救うため、東寺と並ぶ官寺、西寺の僧・守敏を呼んで神泉苑で 祈雨(雨乞い)の祈祷を命じます。しかし、守敏の祈祷は効果なく、雨は十七日目にわずかに降っただけでした。そこで、今度は東寺の僧・空海が勅命を受けて 祈祷しますが、やはり雨は降りませんでした。
効果が無い事を不審に思った空海が調べてみると、空海を妬んだ守敏が、密かに雨神である全ての龍神達を祈祷で水瓶に封じ込めて妨害していたことがわかりま す。そこで空海は、龍神の中で唯一守敏の呪力から逃れていた善女竜王を見出して、竜王を北天竺の大雪山の北にある無熱池(現在のチベットのマナサロワール 湖付近)から神泉苑に勧請して、和気真綱(わけのまつな 和気清麻呂の子)を勅使として供え物を準備して祈祷を再開しました。
善女竜王は空海の気持ちに感じて池中から大蛇の頭上に黄色八寸の姿を現しました。するとたちまち黒雲が起こり、三日三晩の間大雨が降り続いたということです。こうして、神泉苑は、弘法大師の御事跡のひとつ、霊地として有名。

尚、こうして空海の勝利となったのですが、この話には続きがあります・・・

京都市南区には、「矢取地蔵」という地蔵菩薩が祀られていますが、この地蔵菩薩像は、競い合いに敗れて名声を失った守敏が、 復讐のために空海の帰りを待ち伏せて矢を射かけた際に、身代わりに矢を受けて空海の命を救った地蔵といわれていて、その背中にはその時の矢傷があると伝え られています。そして、東寺と対照的に、守敏の西寺は衰退していく。

さて、弘法大師空海以後、神泉苑における密教僧の祈雨(雨乞い)修法は盛んに行われ、恵運、常暁、安慧、真雅、教日、宗叡、益信、観賢、聖宝、元杲、元 真、深覚、仁海等、鎌倉時代まで二十名以上の歴史上に名を残す名僧達が、請雨経法、孔雀経法、太元帥法等様々な修法で祈祷を行ったという記録があり、特 に、山科小野の地に曼荼羅寺(現在の随心院)を建立した東密小野流の始祖・仁海僧正は、九十六才で没するまで九回(七回とも)の祈祷を神泉苑で行い、「雨 僧正」と呼ばれる。


祈祷の効果が無かった場合は歌や舞なども総動員したようで、小野小町や静御前も神泉苑で祈雨(雨乞い)をしたという話も伝承される。

祈祷で駄目なら、和歌ならどうだろうということになり、当時和歌の第一人者の名声があった小野小町が勅命を受けて、神泉苑で「ことわりや 日の本(ひのも と)ならば てりもせめ さりとてはまた 天が下(あめがした)とは」と詠じると、歌の心が龍神に通じたのか、雨が降ったという伝説がある。

また、「義経記」には、高僧達の祈祷も効果が無かったため、美しい白拍子を百人召して祈雨の舞をさせますが、これも九十九人まで失敗。最後に静御前が舞う と雨が降り出し、後白河法皇より「日本一」と称されたという話しが出てきます。また、この時、静御前の舞を見初めたのが義経で、神泉苑は二人の出会いの地 だった。





さらに、神泉苑は、御霊会(ごりょうえ)の発祥の地でもあります。

奈良時代末から平安時代にかけて、当時の人々は、政治抗争で非業の死を遂げたり失脚した皇族や貴族達の霊が、世を怨んで疫病や怨霊として災害等を起こすものと考えていました。
これら御霊・・・・当初は、祟道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原仲成、橘逸勢、文室宮田麻呂・・他に他戸親王や藤原広嗣が数えられる場合もあります。その後、井上内親王、吉備真備、菅原道真が追加され、「八所御霊」と称されました。

これらの御霊による祟りを防ぐため、鎮魂のためにしばしば御霊会が行われましたが、記録で確認できる最初の御霊会は、清和天皇の貞観五年(863)五月二 十日に神泉苑で行われた御霊会です。神泉苑で御霊会が行われ理由としては、怨霊が引き起こした疫病を、水により清めるという意味合いからとも考えられてい ます。

この日、神泉苑では六つの御霊座(祟道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原吉子、藤原仲成、橘逸勢、文室宮田麻呂)が設けられ、金光明経一部と般若心経六巻 が演術され、また雅楽の演奏、舞や雑芸なども行われました。そして、この日に限っては神泉苑の四方の門は開かれ、都の人々が自由に出入りして観覧すること が許された。

その後、都各地でも御霊会が行われるようになりました。

貞観十一年(869)には、当時の国である五畿七道六十六ヶ国に因んだ六十六の長さ二丈の矛(鉾)を神泉苑に立て、牛頭天王(ごずてんのう=素戔嗚尊(す さのおのみこと))を祀った「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」が行われ、これが、後に矛(鉾)に車を付けて、祇園祭の山鉾巡行へ発展していく。


また、神泉苑は「大鏡」のエピソードに基づいた、謡曲「鷺」にも登場します。

醍醐天皇が、夏の園遊のため神泉苑に行幸した時、池の須崎に一羽の鷺が羽を休めていました。天皇は家来の蔵人にあの鷺を捕らえるようにと命じました。蔵人 は葦の間から近づいて捕らえようとすると、鷺は飛び立とうとします。蔵人が「勅諚(ちょくじょう。帝の御意)であるぞ」と呼びかけると、鷺は元の場所に 戻って地にひれ伏しました。天皇は大いに喜んで、鷺に「五位」の位を賜りました。そして、天皇から許された鷺は大空に飛び去って行きます・・・これ以降、 この種類の鷺は「五位鷺=ゴイサギ」と呼ばれるようになった。

請雨経法(しょううきょうほう)とは、雨乞いのほか洪水の時の止雨、ひいては天変地異を防ぐための護国修法である。 弘法大師 ... 奈良国立博物館にそれを描いた図の写しが所蔵されている。 ... 今昔物語』第14巻14話; ^ 重要文化財|神泉苑請雨経法道場図

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重要文化財|神泉苑請雨経法道場図|奈良国立博物館

そして、神泉苑には、善女龍王が住む事になったのです。

これが俗に、天長の祈雨と呼ばれている出来事です。
そしてこの出来事以降、神泉苑では祈雨修法が盛んに行われるようになったのです。








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