とらわれない心

あざける


酔っぱらいは
酒に酔わない人を
嘲笑する
ねぼけ者は
目覚めている人を
嘲笑する。
[以下引用]

 ほんねとたとまえを上手に使いこなしていくことが世渡りの秘訣であり出世のカギをにぎっていると言われている。
 本ねが言えずうまく話を合わせておくということは、私達の日常生活の中に少なくありません。その一番見事な例は、選挙、特に地方選挙によくみられる。ど ちらの顔にも縦ねばならず「よろしく」と言われると「解りました」と答える。そこで、Aの候補にもBの候補にも一票いれます、支持しますという名簿ができ てしまう。「票読みは倍以上でなければ」安心できないということが常識になっている。
 子供の立場からみると、誠に不思議なことというほかないであろう。
 それに、もっと恐ろしいことは、そのことへの反省や矛盾を忘れてしまい慣れてしまってきていることである。
 ほんねが言えない社会であることは現実であるが、だからと言ってそのことへの反省すら失ってしまうことになったら、もうこの世に未来がなくなってしまう。
 それとともに真実に生き、正しさを実現しようとする人達が理屈屋とか変人とか言われてさげすまれ、仲間はずれにされる場合が少なくないことである。
いたずらに権利ばかりを主張し 義務を果たさずにわがまま放題の人が多くなってきており そのようなことは全く許せません。そのような人は正統に批判されていくべきでしょう。
 しかし真に人間が人間らしく生きることができるように、何が真であり善であり正義であるかを問いかけている人間までも個人主義者、利己主義者ときめつけとしまってはならないでしょう。
 人間というものは言い出してしまうと どうしても自分の意見を正しいものとしてあくまでも通してしまわねばならない感情にとらわれてしまうものである。
 また 自分の地位や立場を利用して あいてを押さえつけ、強制しがちになる。親が子に対し、夫が妻に対し、上役が下役に、会長が会員に、先生が生徒になどあげていくと数限りなしである。
 弘法大師も出家し、佛教信仰者になるための修行のなかで当時の人達にどれだけ変人、親不孝者、くそまじめ人間とさげすまされてきたことか知れないでしょう。
 お酒の席になると酔った人がいばりだして酔わない人をちゅう嘲笑(ちょうしょう)する例は少なくありません。
 それと同じように正しい信仰の道を歩んでいる人達をなにも知らない人達が自分のことを考えずに、嘲笑している場合が少なくありません。このようなことでは人間の社会はよくならない、改善していかねばならないと弘法大師はかたりかけていると考えられる。
 真実と正義に生きている人達が支持されていくようにしていかねばならない。佛教の教えにめだめていくためには このような現実について強く反省すべきことであると教えていると考える

痛狂は酔わざるを笑い、酔睡は覚者を嘲る
『般若心経秘鍵』


















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