京都東寺「拡大画像」

          大師堂

【歴史】


 延暦13年(794)桓武天皇は、動乱の中に奈良から長岡京を経て平安京へと都を遷され、羅城門の東西にそれぞれ大寺を置かれました。現在の京都は御所をはじめとして大部分が東方へずれてしまっていますが、東寺は元の場所にそのまま残っていて史蹟に指定されています。東寺は左寺とも申しますが本格的に活動を始めたのは弘法大師の造営以後であります。


このお寺にはアショーカ王以来の伝統に従って、法によって国の平和が守られ、その光が世界の隅々にまで行き渡るようにということと、それぞれの思想が共に侵さず共存していく原理を見出し伝え、共々に力を合わせ実現されていくようにとの大師の願いが込められています。東寺の伽藍は南大門を入って金堂・講堂、少し隔てて食堂が一直線に置かれ、左右に五重塔と灌頂院が配置されています。


塀で区画された境内はそのままマンダラであり浄土であります。我々はそこから様々のメッセージをくみ取ることができます。大師はまた高野山を自らの修禅の場として開かれ、そこで得られた知恵を利他行として東寺で実践されました。生老病死に代表される衆生の苦悩の解決法とその生活への表現が大師の一生でありました。
(・・・中略・・・) 「弘法さん」は毎月21日、大師の命日に催される京の風物詩。境内には千軒以上の露天が並び、20万人以上の人出でにぎわいます。


これは大師に寄せる民衆の信頼の深さを表しているといえましょう。
 東寺は平安京以来1200年もの間に幾度も台風、雷火、兵火等の災害を受け、堂塔の大半を消失しましたが、その都度、一般民衆の信仰の力によりもとの姿に再建され、特に五重塔は古都の玄関の象徴として昔の姿をそのままに伝えて今日に至っております。






言葉
加持といっぱ如来の大悲(だいひ)と衆生の信心とを表す。
仏日
(ふつにち)の影、衆生の心水(しんすい)に現ずるを加といい、
行者の心水、良く仏日を感ずるを持と名づく。 
加持と言うのは如来が人々を救いたいと言う心と、私たちの信心がどのような係わり合いを持っているかを述べたものです。
如来の霊光が心に届くことを加といい、その光を内に保ち生きていくことを持というのです。
この言葉が真言宗の加持祈祷の原理となっています。
言葉
真言は不思議なり。
観呪
(かんじゅ)すれば無明を除く。
一字に千里を含み、即身に法如
(ほうにょ)を証ずる。
マントラは不思議です。
唱えることにより、この身このまま法の究極を悟って、即身成仏することが出来るのです。
言葉
陀羅尼(だらに)の秘法というは、方によって薬を合わせ、服食(ふくじき)して病を除くが如し。
陀羅尼を唱えると言うことは処方箋にしたがって、病気に効く薬を調合すようなものです。