般 若 心 経


つぎは、竜樹がそこに空の理論を見出した般若経を見る順序で
ある。


私たち日本人のなかで,『般若心経』を知らない者はまずいま
い。「色即是空 空即是色」というこの経のさわりの文句を聞いた
ことがない人はもっと少なかろう。

その意味だってたいていの人
が心得ていて、「色や形のあるものは無常なものなのだから、それ
らに執着するのはやめるべきだ」という風に理解しているだろう
と思う。わたくしもそうである。


しかし、立川武蔵によると、そ
れは違うらしい。元々はそうだったのだが、この経典が中国から
日本に渡るうちに変わってきて、いまは「色や形のあるままにも
ろもろのものは真実である」と理解するのが正しいのだという。


空はどこかへ行ってしまった。詳しくは中村元の解釈をこのすぐ
あとで引く。それを「諸法実相」というが、私たち凡愚のこの言
葉の理解は、いぜんとして古代インドでこの経典がつくられた当
時のままに取り残されていて、色や形など実体でないものに関っ
ても無駄で、実体であるものの本質だけを見つめなさいという教
えととっている人が多いだろう。


しかし、諸法実相とは、中村に
よれば、「諸法が互いに合依り相互に限定する関係において成立し
ている如実相を意味し、縁起と同義である」ということになる。
最澄はこの言葉をはなはだ愛用した。

もろもろの法(現象)が真
理のあり方をそのまま示しているという考え方で、それが日本天
台の根本思想になったのである。


そうして、それはそのまま前に
述べた天台本覚思想として私たちが理解しているものでもある。
本文わずか二百六十二文字の小さな経典『般若心経』が日本人
のあいだでいちばん人気があるのはいまに始まったことではなか
った。

すでに江戸時代には、一口に「習ったお経は心経に観音経」
というくらい人びとのあいだに広まっていた。「めくら心経」とい

うものさえあった。無筆つまりあきめくらの人にも読めるように
と、文字の代わりに絵でもって全文を示したもので、大きいとか
優れたという意味の「摩訶」(マカ)は釜の絵を逆さに、「般若」
は般若の面の絵でという具合なのである

(金岡秀友項校注『般若
心経』)。もっとも角を生やした恐ろしい顔の「般若の面」と清ら
かな心経とはどこで結びつくのかが分からなかった。

不思議に思
って、広辞苑を引いたら、それは般若坊という名前の能面師が打
った鬼女の面から来ているのだそうである。ただしそれにも異説
があって、馬場あき子は般若心経の「般若」すなわち「悟りの知
恵」をこの恐ろしい鬼女の面に見ている。

いかにも文学者らしい
解釈ではあるが、仏の知恵によって解脱したいという嫉妬に狂っ
た女の切なる願いが込められていると考えるのである(馬場『鬼
の研究』一九七一年)。


人気の秘密の一つは短いからだろう。ほとんど意味も分からな
い漢語を読み下すのも、慣れない筆で写経するにも、二百六十二
字ならさほどの辛抱を要求しない。

しかも、なによりも全六百巻
という大般若経を三百語たらずに圧縮したエッセンスともいうべ
き有難いお経であるからには。

とはいうものの、いくら真髄だけ
を述べたといっても、たったの二百六十二語では短縮するにして
も少し度が過ぎている。省略された言葉のつながりが分からなく
て内容を理解するのに苦労するだろう。

そこで、古来、心経には
数え切れないくらい注釈書が書かれたのだった。人びとの関心の
深さもさることながら、その一語一語がなにを意味しているかを、
その背景とともに、教えてもらう必要があったのである。


今日、日本で一般に読誦される般若心経は、かの三蔵法師玄奘
の漢訳による『仏説摩訶般若波羅密多心経』(通称『般若心経』)
である。私たちはそれを主として金岡秀友校注『般若心経』(講談
社学術文庫本、二〇〇一年)によって見ていきたい。

「般若」とは、
人間が本来もっている浄らかな心、浄らかな本性のこと。金岡は、
般若心経を「真実の知恵の経」と定義し、「人間本来の浄らかさを、

さまざまな修行によって、充分に発揮し完成させる」ための知恵
を説いたのがこの経だという。


もっとも重要なことは、実践に結
びつかなければ般若ではないということ。実践には五つあって、
布施、持戒、忍辱、精進、禅定をいう。


前の四つは説明の必要も
ないだろうが、最後の「禅定」というのは、精神を安定させるた
めの修練である。この五つの実践が完成してはじめて最終的に般
若が完成するのだ。完成の形の般若を加えた六つが「六波羅密」
である。六波羅密の達成は基本的には誰にも可能である。

般若心
経の背景には、「一切衆生悉皆仏性」つまりすべての人に仏の性が
備わっているという思想があるのだ。

または「一切衆生心本来清
浄」とも。私たちは、前項で述べた竜樹の空の理論のなかに、実
践的な仏法を目指す理性の働きを予感した。


金岡の解説を読んで
私たちが感じるのは、般若心経がまさにその空観の真髄を語って
いるらしいということであった。


この経の本文は、観自在菩薩すなわち観音さまが舎利という釈
迦の弟子に向かって空の真理を説き明かす趣向になっている。す
でに釈尊が直接弟子たちに説くという古い形がすたれ、数万だか
数十万だか知らないが、無数にいる仏や菩薩が劣った者たちに真
理を説くという大乗仏教に特有の形になっているのだ。


「観自在」
という名は、真理と現実(現象)のあいだに区別を立てず、その
ありのままの姿に真実を見る自在の境地にあるということを意味
している。


最初の部分の有名な文句「色は空に異ならず、空は色に異なら
ず。色は即ちこれ空なり、空は即ちこれ色なり」の中村元の解釈
「実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。
また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象である
のではない。


およそ物質的現象というものは、すべて実体がない
ことである。およそ実体がないということは、物質的現象なので
ある」を金岡が紹介している。

色とは、形あるいは形として人間
の五感上に顕れるものを指し、実体ではないが、西欧哲学では、

普通はその裏に感覚を呼び覚ます実体(物自体)があると観念さ
れている。中村のこの解釈は、現代風な言葉で表された精一杯の
空理論の絵解きだろうと思う。「空」は、ここではたんなる空虚(か
らっぽ)から真理を示す語に進化しているのだ。

現実にとらわれ
ず、しかも現実を重視する立場こそ、般若心経が明かす空観の立
場である。



般若心経はいう。眼・耳・鼻・舌・皮膚の五感で感じるすべて
のものには実体がない。心に思うことにもない。物事を知ること
つまり自分の意識も実体ではない。覚りの入口にも達せずなんに
も知らない愚かな状態を「無明」というが、人が無明であること
もないし、その人の無明が解消するということもない。


なんにも
ないという真理を知ることこそ般若波羅密多すなわち知恵の救い
であると。金岡はそれを「無一物無尽蔵」が般若の心であると表
現する。過去・現在・未来の三世に出現する無数の仏たちはみな
その心を覚知し、ひたすら人びとに救いの道を示す。そうして、
最後に心経は真実の言葉、無上の真言を誦すことを勧める.

「ガー
テー、ガーテー、パーラサンガテー、ボーティー、スヴァーハー」




このマントラの意味
を、金岡が引く渡辺照宏訳で見よう。「到れり、到れり。彼岸に到
れり。彼岸に到着せり。悟りめでたし」



内外の数ある般若心経の注釈書のなかでもっともユニークな
のが弘法大師空海の『般若心経秘鍵』だと金岡はいう。昔から日
本の高僧たちは経典を自在にというか、かなり恣意的に読み解く
のを習慣としてきた。


自由かつ自在な解釈が、仏教をこの国独自
なものとして定着させるためには必要な作業であったのかもしれ
ない。親鸞もそうだったというが、

なんの智慧も計らいもいらな
いという念仏の信心が易行とされるけれども、じつはそれがいち
ばん難しいのだということを親鸞はもちろん知っていただろう。

その困難な成仏あるいは覚りを得るには神秘的直感つまり呪術的
な力を必要とする。空海は仏の知恵は翻訳不能だと知っていた。



だからこそ、般若心経の最後の数語が「呪」すなわちマントラと
呼ばれたのだった。真実を明らかにするには、一切の苦を取り除
く呪あるいは真言(マントラ)の不思議な働きがどうしても入用
だ。弘法大師はいう


「真言は不思議なり。観誦すれば無明を除く。
一字に千理を含み、即身に法如を証す」と。

と。これは呪(マントラ)であり、だから梵語のままであり、漢
語に翻訳してはいけないものであるとされた。疑ってはいけない。
この境地こそが「無上正等覚」なのだから。