東京の見納めに、と思って東京競馬場を訪れたのに、まだすこし迷っていた。バーを譲ってやると森さんは言ってくれたが、僕はずっと望んでいたその機会をふいにして、あたらしい暮らしのほうをとろうとしていた。悔いは残らないか?残るかもしれない。

九六年のオークス。エアグルーヴに、一万円つぎこんだ。強い馬だが、前の月の桜花賞は、熱発のせいで出走できなかったのだ。その悔いを、いや、どんな悔いをも、一万円で買い取れるならどんなにいいだろう。

順調な前半だった。どの馬も、自分の進路に確信をもっている。が、最後の直線。先頭にいた馬が斜行した。馬群が歪む。僕の決意のように。エアグルーヴはしかし、失速しなかった。それを追うのは、彼女が断念したあの桜花賞の勝者ファイトガリバーだった。でもガリバーを、エアは一馬身半でしのぎ切った。

「借りを返した!」誰かが叫んだ。借りだって?エアグルーヴはそもそも桜花賞に出てすらいないじゃないか。だけどみんな本当は解っているのだ。走らなかった桜花賞さえ、エアグルーヴの一部なのだと。走っていないことが、彼女を物語にしている。

いつだって僕は「何を選んだか」で自分が決まると思っていた。でも本当は、無数の「選ばなかったものたち」が、僕を僕たらしめているのではないか。ぶわっ、と強い風が吹いて、観客席のハズレ馬券を舞い上げた。さようなら古い夢、さようなら森さん。東京を出てゆく僕の傍には、バーカウンターに残った僕がいつもいる。これはだからバイバイじゃない。ハローなのだ。
フランキーが東京優駿でデボネア騎乗?
まるで、呼吸の仕方を突然忘れたような気分だった。腕を骨折した日から、ドラムを叩けなくなったのだ。僕を包んでいた大きな力が消え、バンドは去り、終わりのみえない春休みの中に僕はいた。

第1回のヴィクトリアマイルをみたのは、ダンスインザムードが出ていたからだ。かつて「天才少女」とも呼ばれた良血馬。二年前の春には、僕も連勝させてもらった。だが桜花賞を終えると少女の魔法が解けたのか、二度と勝てない彼女がいた。その日、僕は彼女に勝ちと負け、どちらを望んでいたのだろう。

走りだした十八頭の古馬たちは、みんな僕より大人にみえた。ダンスインザムードはずっと、五、六番手にとどまりつづける。第4コーナーを過ぎても、加速する気配がない。それでいいよな。あたたかい諦めと安心が僕を満たそうとしたその瞬間、刃物のようなギャロップで、ダンスインザムードが内側から差し切った。

速度を緩めてゆく彼女と、目が合ったような気がした。甘い感情移入など拒むような強い視線に、僕は思わずたじろいだ。真っ黒な馬体が、踊っている。その毛並は二年前より眩しくみえた。

そうか、魔法は所詮、魔法なんだ。それよりも。魔法が解けたところから、僕らはやっと始まるのだ。何をやってもいい。何をやらなくてもいい。ドラムスティックを持たない今、僕は手ぶらで、いよいよ自由だった。ダンスはつづく。僕はこの春休みを、もうすこしだけつづけよう。でも蒸し暑い季節が来る前に、まず引越しでもしてみようかと考えていた