過日、東京湾と相模湾とが交叉る海域を見下ろす高台にある三十七基の会津藩士の墓に参じた。
潮を読み風を読んでする操船は、如何程の御苦労であったか。
徳川幕府から江戸湾海防を命ぜられた会津藩は文化七年(西暦1810年)、番頭(警備部門最高責任者、戦とならば指揮を執る)原田又助率いる五百の精鋭を相州三浦郡に派遣。鴨居及び三崎に陣屋を構築した。
苔生す墓碑に刻まれたところを読み、その任務が非常に厳しいものだった事が私にも分かった。
文政三年(西暦1820年)まで十年の長きに亘り、慣れぬ海と頻繁に現れる様になっていた異国船への対応に当たった後、藩主松平容保公が京都守護職に任ぜられて朝廷を守ったにも拘らず、戊辰の戦で朝敵とされ、会津戦争を敢闘するも血の海に沈み、コメなど幾らも取れぬ新領、斗南藩に追放されて飢餓と酷寒の生地獄を往く事になったこの人達は、一体どの様に自身を鍛錬していたのか。
会津家訓十五条の一に言う。
武備は怠るべからず。
士を選ぶを本とすべし。
上下の分、乱るべからず。
また、言う。
若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、土民をしてその所を失わしめれば、即ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表して蟄居すべし、と。
陣屋の侍の事を年寄りに聞いたという土地の古老の伝えるところに拠れば、その生活態度は謹厳なものであったとの事である。
会津藩士の子供達は什の掟の終わりを「ならぬことはならぬものです。」と締め括った。
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酒を断つ事、全く荒事であって、自分には命をかけない事にはやり遂げられまいと感ずる。
故に本日、ある覚悟を以ってこれに当たる決心をした。
令和元年 立冬